毎日のように公園を散歩していると同じ場所で同じような光景に出合う事がある。自然観察園の池の芦原ではアオサギに出合う事が多いのだけれど、彼はいつも倒れた木を止まり木のようにしてじっとしている。ここが彼の指定席なんだな、と。
公園の丘の上に行くといくつかベンチがあって、それぞれのベンチを指定席としている人たちがいるようだ。それは曜日と時間によって異なっているが、どのベンチもその人のライフサイクルに組み込まれた大事な指定席のような気がする。
公園の丘の上に行くといくつかベンチがあって、それぞれのベンチを指定席としている人たちがいるようだ。それは曜日と時間によって異なっているが、どのベンチもその人のライフサイクルに組み込まれた大事な指定席のような気がする。
うららかな日の午後などに公園のいつものベンチで読書をしている人を見かけると、その人にとってはそこは何物にも代えがたい大切な場所なのだと感じる。人生に指定席があるということは素晴らしいことかもしれない。でも、考えてみればそれは約束された場所ではなく自分の心の中だけの特別な場所なのだ。
心の指定席は列車の指定席のようにチケットがあるわけではないので、当たり前だがいつでも誰でもが自由に使うことができるものだ。まぁ、アオサギくんなら他の鳥が指定席にいれば脅してどかせることもできるかもしれないけれど、人間の場合そうもいかない。
となると、自分の指定席に先に誰かが居たりすると途端に心にさざ波が立つような…。例えば、ぼくの通っているスポーツジムのロッカールームは自由にどのロッカーでも使う事が出来るのだけれど、自然と自分がよく使うロッカーの場所は決まってきて、既に先に使われていると何となく落ち着かないような…。
というわけで、ぼくらは今日も安定したそれぞれの指定席を求めて彷徨うのかな。
というわけで、ぼくらは今日も安定したそれぞれの指定席を求めて彷徨うのかな。

*大昔ドイツにいる時分、下宿の近くのKneipe(クナイペ…レストランと飲み屋をあわせたような)によく晩飯を食べに行ったことかあるんですが、その際好きな場所に座れと言いながら座ろうとすると「そこはダメだ」と言われる席があったりして面食らったのですが、何回か行っているうちにそこはよく見かける近所の常連のおじさん達の席だと知りました。
ドイツではそういう席をStammtisch(シュタムティッシュ)といって常連客用の席があります。Reserveの札が立っている場合もありますが、ぼくの行っていた店は何も置いてなかったのです。
下宿のすぐ近くだったのでそれでも通い続けていたらある時、こっちに座れみたいなジェスチャーで案内されたのがシュタムティッシュの一角でした。何だかその地域に受け入れられたようでとても嬉しかったのを覚えています。
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