2023年09月25日

モラトリアム トーキョー

モラトリアム トーキョー
 
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 今年の9月1日であの関東大震災からちょうど100年になる。そして世界でも今年二月のトルコ・シリア地震そして今月初めのモロッコ地震と立て続けに大きな地震が起きている。現地からの映像を見ているとまさにがれきの山で救出もままならない状況に胸が痛む。とても他人事とは思えない。

 と言いながらも心のどこかでは、モロッコでは家などの構造物が日干し煉瓦が主体だから…とか、トルコの場合も必ずしも耐震基準が守られていなかったのでは…とか、関東大震災も当時は街自体がほとんど木造で耐火性に乏しかったから…とか、なんとか自分たちの街はそこまではいかないのではないかと思い込もうとしているのかもしれない。

 しかし、阪神淡路大震災のことを考えると今の日本のビルや街が安全という思い込みはできないし、安全と言われた高層ビルにしても次第に明らかになってきた長周期振動の恐怖もぬぐい切れない。ぼく自身は被災しなかったのだけれど、ぼくは今でも1995年に起きた阪神淡路大震災の時の経験を忘れることができない。

 1995年、年初の正月気分がやっと抜けた1月17日、地震が起こった。朝出勤前に家でテレビを見ている限りでは、神戸で今本当に何が起きているか定かには分らなかった。当時、ぼくは企業の東京の本部に在籍しておりいつも六時前には自宅を出て七時過ぎには会社のデスクに座っていたが、そこに神戸支店長が悲痛な声で電話をかけてきた。

 今、神戸支店のあるビルに入ろうとしたのだが、オフィスのある4階フロア全体がすっぽりと潰れて無くなってしまっている。ビル自体も傾いている、と。そのビルの姿はその後のニュースの画面に何度も登場したが、その報告に全身から血の気が引いていった。電話の向こうでは支店長の嗚咽の声が響いていた。もし、それが平日のオフィスアワーに起こっていたら数十人の職員が犠牲になっていたかもしれない。

 東京はいつかは分からないが、大地震が必ずくると言われている稀な世界的大都市である。南関東のどこかで、マグニチュード7の地震が30年以内に約70%の確率で発生すると予測されていて、それは東京という大都市の真下でも発生することを意味している。

 東京は、いわばいつかは大きな利子をつけて支払わなければならない債務を抱えていながら、とりあえずはそれを支払猶予(モラトリアム)で先延ばしにされている、言ってみればモラトリアム都市だ。人々は恐れながらもそれは確定的な未来ではないことにして、その間に都市は海へと、そして空へと増殖してゆく。

 それも地盤が磐石な北東部へではなく豆腐のような地盤の臨海部へ、そして限りなく不安定な高い空を目指して繁茂してゆく。お台場、有明、汐留、そして丸の内、日本橋、原宿、六本木と次々にきらびやかな高層建築物と街並が出現してゆく。

 今東京都が「TOKYO強靭化プロジェクト」なるものを推進しつつあるが、喫緊でやらねばならないことも山積している。例えば地震の際に真っ先にぼくらを頭上から襲ってくる、ビルから突き出た袖看板などは法的規制も甘く見逃されている感じもする。

 ぼくもカミさんも東京生まれの東京育ちだからここが故郷なわけで、何があってもほかに行き場もないのだけれど、与えられたモラトリアム期間のうちに是非とも災害に強靭な都市になってほしいと願っているが…。
 


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 *以前、留学期間を終えて故国に帰る留学生に、時々は彼らが暮らしたこの東京のことを思い出してほしくてこのブログのAnsicht TOKIO(東京の眺め)というコーナーで撮りためた写真をスライドショーにしてDVDで渡したことがあります。

 その時の動画をYouTubeで限定公開にしてアップしていたことを思い出したので下に載せました。東京のできるだけ多様なスポットを入れたいと思い、ちょっと欲張りすぎてバックに東京にちなんだ曲が3曲も入って13分の長尺になってしまいました。冗長ですが、お時間の許すときにでもご覧いただければ嬉しいです。
 

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posted by gillman at 14:06| Comment(13) | Ansicht Tokio | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年09月23日

父からの便り

父からの便り
 
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 今年の暑く長い夏もようやく終わろうとしている。父も母も他界したのは九月だったので、それからは暑さの想い出はいつもほろ苦い味がする。これからの夏はますます暑くなるだろうから…。幸いと言おうか、父も母も生前はこんな狂気じみた酷暑が当たり前の時代になろうとは思わないで逝ってしまった。

 21世紀になってまだ二十余年にして大きな変化がひたひたと近づきつつある気がする。20世紀末、日本のバブルは剝げたけれど、当時のぼくには来るべき世紀への明確な期待もなかったかわりに、形になった不安も見えていなかった。ただ、当時教えを受けていた永井陽之助先生の21世紀はテロと地域・民族・宗教間戦争の時代になるだろうという言葉が能天気なぼくの頭を打ちすえたのを覚えている。

 その21世紀になったばかりのある日、一通のハガキが届けられた。それはハガキよりひとまわり大きな透明のファイルに入れられていた。昭和60年(1985年)9月30日の日付だった。送り主は父で、文面から父は7月22日にこのハガキをしたためていたことがわかる。父は当時開催されていたつくば科学万博にいって会場から「20世紀の私から、21世紀のあなたへ」というイベントでぼくとカミさん宛のその便りを書いた。

 つまりそのハガキは16年後の21世紀、2001年になってから配達されるというものだったらしい。父からはそのハガキのことは聞いていなかったので受け取ったときは驚きもしたし、感慨深くもあった。内容は家庭を大事にして暮らしなさいというようなものだけれど、最後に自分が海外旅行をしたようにこのハガキが着くころにはぼくらも月旅行にでも行けるようになっているかもしれないと結んでいる。

 その頃もう老齢だった父にとっての21世紀という新しい世紀の距離感がなんとなく漂っている。父は残念ながらこのハガキを投函した10年後の夏に他界した。父は根っからの職人だったから手紙を書くというようなことはほとんど無かった。覚えている限りぼくが父から何らかの便りをもらったのはこれを含めても二度。

 一度はぼくがまだ二十歳過ぎのころドイツに居る時に手紙をもらったことがあった。ぼくは下町の育ちだったから父のことはずっと「とーちゃん」と呼んでいたけれど、さすがに二十歳を過ぎてからは「おやじ」と呼ぶことが多かったけれど、でも面と向かって「おやじ」と呼びかけたのは記憶にない。

 当時のその手紙の文面はいかにも父らしかったけれど、一番驚いたのは手紙の中でぼくのことを「君(キミ)」と言っていたことだ。家では子供の頃からずっと父にはぼくの呼び名の「ケン」で呼ばれていたけど、手紙とはいえ「君」と呼びかけられると何とも言えない距離感を感じた一方、自分のことを客観的に見てくれるようになったのかと少し嬉しくもあった。

 父は酒を飲まなかったので一緒に暮らしていても酒を飲みながら親子で馬鹿話をするということはあまりなかったし、どちらかと言えば寡黙な父だったので「最近忙しいのか…」「うん、まぁ、何とかやってるよ…」みたいな、そばにいるからあたりまえの日常トークが殆どだった。今思うと、なんかもっといろいろと話しをしておけば良かったなぁと…。
 

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 *今思うと、確かに21世紀が情報通信や遺伝子技術などの科学の発展で多くの問題を解決してくれる世紀のようでキラキラと輝いていた瞬間もありましたね。つくば科学万博は21世紀が16年後といういわば射程距離に入った1985年という微妙な時代のできごとでしたね。

 つくば万博の"…つくば万博は、科学技術に対する理解と協力を深め、人類の輝かしい未来の創造に寄与することを目的とし、「人間・居住・環境と科学技術」を統一テーマに掲げ…"というパローレは今のぼくらの心には複雑に響きます。
 


 (2014年)

 
posted by gillman at 13:52| Comment(11) | 新隠居主義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年09月08日

晩夏光

晩夏光

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 晩夏という言葉は情緒があってぼくも好きな言葉だけれど、歳時記や暦の上では、晩夏とは立秋(今年は8月8日)の何日か前から処暑(しょしょ)を過ぎた9月初め頃までとされているらしいが、何だか段々と、と言うより急速にぼくたちが今体験している季節との乖離が広がっている感じがする。

 本来は頭の中で、過ぎてゆく夏の体験をリフレインしつつ晩夏の情緒に浸りたいところだけれど、日中には34度を超すようではそんな気にもなりにくい。とは言いながらぼくが公園散歩の中でずっと感じてきたのは季節の変化というものは、例えば夏であればまさに盛夏の時からその兆しがみえているという実感だ。

 昼間のうるさいような蝉の声がある一方で、早朝に散歩するとそこここの茂みから虫の集く声が聞こえてきたり、でも昼間はまだ蝉の天下だ。また写真を撮っていると、あ、光に力がなくなってきたなぁ、とか…。矛盾するかもしれないけれど、季節の移り変わりはシームレスに動いているという感覚と、あ、今日からはっきり秋になったなという感覚と、その両方をいつも感じている。

 先人たちもそういう感覚があった、というより自然と共に生きていたから今のぼくらの数倍そういう感覚は鋭かったのだろうと思う。「晩夏光(ばんかこう)」という言葉も、夏のある日ふと気が付くと日の光が盛夏の時ほどの力がないということに気づいて季節の移ろいを感じるということなのだ。
 
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 ということで今年の夏は今しばらく続きそうだけれども、現代日本人にとって夏は祈りの季節でもある。原爆投下、終戦という出来事そしてお盆さらにお彼岸(歳時記的には秋だが…)と頭を垂れて祈ることの多い季節だ。ぼく自身についても父も母も九月に他界している。夏になるとその時のことが頭をよぎる。

 この歳になると桜の季節を迎えるとああ今年も生き延びたなぁ、という感慨が湧いてくるけれど、目の眩むような暑さの夏が終わろうとする晩夏には、暑さを乗り切った疲れとそれでも親や先人のおかげで今日も生かされているという感謝が湧いてくる。

 ■祈りとは 膝美しく折る 晩夏 (攝津幸彦)
 

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 gillman*s  Park (Youtube)
 
 

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*この夏公園散歩を再開した時、いつも散歩の最後に休憩する湖畔のベンチからの光景をスマホの動画で撮りました。今はここがぼくの散歩の目的地です。早くここからさらに丘の上まで行けるようにとリハビリをしています

**晩夏光としての句は角川春樹の下の句が好きです。
 ■存在と 時間とジンと 晩夏光 (角川春樹)

and also...
posted by gillman at 11:41| Comment(8) | gillman*s park | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする