2024年09月23日

心の墓標

心の墓標
 
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 今年もお彼岸がやってきた。父も母も9月に亡くなったのでお彼岸や命日には暑い記憶が纏わりついているのだけれど、今年はとりわけ暑い。早いもので今年で母の七回忌になる。七回忌だからと言って特別なことは無いのだけれどその度に改めて故人の事を思い起こすのには大切な節目だと思っている。

 よく人は二度死ぬと言うけれど、一度目は本人が亡くなったとき、そして二度目はその故人を知る人が亡くなるか、その人の中からその故人の記憶が薄れて無くなったときだと言われる。目に見える墓標も目には見えない心の墓標もやがては朽ち果ててゆくのだけれど、そのスピードや故人との距離感の隔たりが現代ではとても速くなっているような気がする。

 昔は仏教でいえば葬儀から一回忌そして十三回忌くらいまでステップを踏んで故人の想い出や記憶が遠ざかってゆく。それはある意味では煩雑な因習に見えるかもしれないけれど、別の意味ではそれは故人の人生に対する一つのレスペクトの形でもあったかもしれない。

 今は高齢化社会という事もあって故人の社会的繋がりも薄くなっているから簡素な家族葬を行い、年忌法要も余り行われないようだ。ぼくの父母の葬儀は親類も集いそれなりに行ったけれど、ぼく自身は戒名も恒久的なお墓も持たずひっそりと逝きたいと思っているが、ここ数年何人かの親類の家族葬に立ち会って感じたのは、自分でもはっきりとは言えないような複雑な思いだった。

 ほんの数人で野辺の送りを済ませて、あとは次の日から何もなかったような日常に戻る。昔のゆっくりとフェードアウトしてゆくような故人の遠ざかり方に対して、今は煙のように消え去ってゆく感じがする。今の慌ただしい時代の流れであり、残ったものへの重荷の軽減でもあるかもしれないが、他方去っていった人間の人生が何となく軽んじられているような気がしないでもない。まぁ、単なるノスタルジーかもしれないが…。
 
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posted by gillman at 10:44| Comment(7) | 新隠居主義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする