キーンさんの心に残る言葉...
2月24日でドナルド・キーンさんが亡くなって丸六年になる。キーンさんはその著「日本人の質問」の中でこう言っている。日本人は初対面の外国人に日本料理のこれは食べられるかとかよく聞くが「…口に合わないものを外国人に食べさせたくないと思うのは、日本人の親切心のあらわれと思われるが、その裏には"日本の特殊性"という意識が潜在している…」と日本人の特殊主義のようなものを見抜いている。
例えば「日本語は難しいでしょ」と言うが、世界には東欧系の言葉のように難しい言語は沢山あるのだけれど、本当の日本語は外国人には無理だと思っている。歌舞伎にしたって、能にしたって会場で外国人を見かけると何の根拠もなしに「わかるのかしら…」なんて思ったりして。
もちろんそんなことはぼくら日本人がドイツのバイロイト音楽祭に行けば、日本人にワグナーの音楽が分かるのか、みたいな反応には会うので言わば「文化の血の驕り」みたいなのはどこの世界にもあるのだけれど、それが日本には強いように思う。この「特殊主義」みたいなものは民族のアイデンティティとは少し違って、とにかく日本文化の多方面で自分たちは特殊で他からは中々理解されにくいという信仰みたいなものがはびこっているような気がする。
例えばドイツで言えば勿論ドイツなりのアイデンティティはあっても、その底流に西欧文明というものへの心理的なしっかりとした親和感みたいなものがあるのだけれど、それでは日本に中国文明に対するそういった親和感が今あるかというと、それは中々素直に認めたがらない心理が働いているらしい。難しいことはよく分からないけど、どうもそうなったのは日清戦争以降で、それ以前は文化人たるもの教養の基本はヨーロッパ人にとってのラテン語のように中国文化だった。(逆に日本文化は中国文化の亜流だと自虐的に言う日本人もいるが、それにもキーンさんは異をとなえているが…)
そこらへんはキーンさんも「日本人の美意識」の中で少し触れている。さらに日本文化の特殊性ということについてキーンさんはそれを認めつつも、日本人が世界と分かり合える道筋を「特殊性の中にある普遍性」という言葉を示してぼくらに勇気を与えてくれているので、少し長いけれど引用をしておきたい。それはぼくの生涯の珠玉の言葉となっている。
「…日本の全てが西洋を逆さまにしていると書きたがる旅行者は現在でもいるし、一方で日本の特殊性を喜ぶ日本人も少なくない。
「…日本の全てが西洋を逆さまにしていると書きたがる旅行者は現在でもいるし、一方で日本の特殊性を喜ぶ日本人も少なくない。
が、私の生涯の仕事は、まさにそれとは反対の方向にある。日本文学の特殊性--俳句のような短詩形や幽玄、「もののあはれ」等の特徴を十分に意識しているつもりだが、その中に何かの普遍性を感じなかったら、欧米人の心に訴えることができないと思っているので、いつも「特殊性の中にある普遍性」を探求している。
日本文学の特殊性は決して否定できない。他国の文学と変わらなかったら、翻訳する価値がないだろう。日本料理についても同じ事が言える。中華料理や洋食と違うからこそ、海外において日本料理がはやっている。が、いくら珍しくても、万人の口に合うようなおいしさがなければ、長くは流行しない。納豆、このわた、鮒鮨などは日本料理の粋かも知れないが、日本料理はおいしいと言う時、もっと普遍性のある食べ物を指している。」 (日本人の質問)
日本文学の特殊性は決して否定できない。他国の文学と変わらなかったら、翻訳する価値がないだろう。日本料理についても同じ事が言える。中華料理や洋食と違うからこそ、海外において日本料理がはやっている。が、いくら珍しくても、万人の口に合うようなおいしさがなければ、長くは流行しない。納豆、このわた、鮒鮨などは日本料理の粋かも知れないが、日本料理はおいしいと言う時、もっと普遍性のある食べ物を指している。」 (日本人の質問)
*キーンさんと親交のあったアメリカのタフツ大学のチャールズ・イノウエ教授はこう述べています。「…キーンさんはずっと日本のよいところを語ってきたわけなんですけれども、いまになって、もう少し、悪いところも言わなければならないけれど、アメリカ人として言うのはつらくて、できないと。愛する日本を外国人として批判するのではなく、日本人として苦言を呈したかったんです」
それに対してキーンさんは…
「あなたが言うように、もっと伝わるようにやれればよいのだけど、私が懸念しているのは、日本人は私がいかに日本を愛しているかを語ったときしか、耳を傾けてくれないことだ」(2014年1月14日/チャールズ・イノウエ教授談/NHK サイカルjournalより) 耳の痛い話です。
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なんとなくそんなが気がしました。
特殊性の中にある普遍性、わかるような気がします。
教授のウイリアム・リードさんという方が書道10段、合気道8段なのですが、こういう方を見ると何を持って日本人というのかよくわからなってきます。
江戸時代までの日本人の歩き方のナンバ歩きやすり足のようなものも消えて、いま気になっているところです。