2016年06月27日

醜聞

醜聞

becky11a.jpg



 ■ 醜 聞

 公衆は醜聞を愛するものである。白蓮事件びゃくれんじけん、有島事件、武者小路事件――公衆は如何にこれらの事件に無上の満足を見出したであろう。ではなぜ公衆は醜聞を――殊に世間に名を知られた他人の醜聞を愛するのであろう? グルモンはこれに答えている。――
「隠れたる自己の醜聞も当り前のように見せてくれるから。」

 グルモンの答は中あたっている。が、必ずしもそればかりではない。醜聞さえ起し得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼等の怯懦きょうだを弁解する好個の武器を見出すのである。同時に又実際には存しない彼等の優越を樹立する、好個の台石を見出すのである。「わたしは白蓮女史ほど美人ではない。しかし白蓮女史よりも貞淑である。」「わたしは有島氏ほど才子ではない。しかし有島氏よりも世間を知っている。」「わたしは武者小路氏ほど……」――公衆は如何にこう云った後、豚のように幸福に熟睡したであろう。


 (芥川龍之介「侏儒の言葉」)



 今月の12日はぼくの好きなナンシー関の命日だったのだけど、彼女が生きていたら今の芸能界の諸々をどう見ていただろうかと想像したりする。最近は余りリアルタイムでテレビを見ることが少なくなったし、芸能界のニュースも「んなこと、どうでもいいじゃん!」と思うのだけれど、ナンシー関はそうではなかった。

 彼女は偉大なるミーハーというか、テレビに登場するスターや芸能人のあり様をテレビのこちら側で穴のあくほど見つめて、直感的に(とは言いつつある意味では極めて論理的に)本質的なものを喝破するという能力を持っていた。そこが偉大なるという所以だと思う。

 ナンシーは言う「わたしは"顔面至上主義"を謳う。見えるものしか見ない。しかし目を皿のようにして見る。そして見破る」ぼくらが半ば通り過ぎる背景のように無意識に観ているテレビの画面の向こうに映り込んでいる時代の匂いや、人間や大衆の根っこをナンシーは目を皿のようにして観ていたのだ。

 天野祐吉さんがまだ存命のころ、時々ぼくのブログにコメントを入れてくれることがあったのだけれど、以前ぼくがナンシー関のことについて少し書いた時もそこにコメントを入れてくれたことがあった。天野さんはナンシーと仕事をしたことがあったらしいのだが、彼はナンシーの眼力が怖かったと言っていたことを思い出した。


 ナンシー関が目を皿のようにしてみていた「芸能人」だけど、ぼくは若い頃から落語が好きなので「芸人」という言葉に畏敬の念を抱いていた。今は「お笑い芸人」などどちらかと言えば軽い感じで使われているような気がする。それに対してこのなんだか良くわからない「芸能人」という言葉の方が使われるようになった。芸[能]人という位だから芸人よりも「能」があるみたいなのだが、実際は歌や踊りや話芸などのいわゆる専門的芸を持っていない「芸no人」を指している場合が多い。別名「タレント」とも言う。

 それじゃあ、専門的芸のない彼らは何をもってメディアの海の中を泳ぎ回っているのかというと、これまたよくわからない「キャラ(キャラクター)」というものを武器にして渡り歩いている。曰く、良い人キャラ、おバカキャラ、外人キャラ、インテリキャラ、キモキャラ、いじられキャラ、カマキャラそしてヒールキャラつまり嫌われ者キャラ等々。

 これらを敢えて「芸風」と言えば言えないこともないけれど、そもそもその芸風の芯になる「芸」がない中での芸風なのでなかなか難しいことも確かだ。例えば、嫌われ者のヒールなぞは皆から100%嫌われてはメディアから駆逐されてしまうので、時々は無邪気さや、ひたむきさや、人情味や家族思いなどのプラス要素をタイミングをみて垣間見させなければならない。

 それによって、いつもはあんな事言っているけど、もしかしたらあの人も本当は良い人なのかも…と、でもこれも出しすぎて元のヒール感を消してしまう程になってはいけない。そのさじ加減が難しい。時折泥まみれになってゲームで頑張るデビ夫人も、さりげなく野村監督が漏らす野村沙知代のプラス情報だってヒールキャラのコントロール情報の一つには違いないのだ。

 一方、良い人キャラのトップを走っていたのがベッキーだった。ところがいくつかあるキャラタイプの中でこの「美人で良い人」というキャラは実はとてもリスキーで脆弱性を持ったキャラなのだと思う。先のヒールのキャラが実は良い人かもしれないというアンチ情報が過度に流れてもヒールキャラの力は弱まるかもしれないけれど、致命的ではない。もちろんifレベルだけど、例えば、おバカキャラのスザンヌが学生時代成績が良かったり、ボビー・オロゴンがホントは流ちょうな日本語が話せたり、ウエンツ 瑛士が実は英語がペラペラだったとしても、それは致命的ではない。

 ところが、良い人キャラにおいては、実はそれ程良い人ではないかもしれないという情報はそのキャラ芸能人に致命的になることがある。ましてそのキャラの主が美人とあればなおさらだ。冒頭の芥川龍之介の言葉にあるように、それは大衆の持つジェラシーに火をつけ手の付けられない事態を招くからだ。

 ちょっと意味はズレるかもしれないけど、それはニーチェの言う一種のルサンチマン(ressentiment)にも通ずる膨大なエネルギーを持っている。これが芸人であれば芸とキャラに一線を画することができるし、そもそも芸自体に善悪はなく巧拙があるのみだから上手くやれば逃げ道はあるのだ。ところがその芸がないキャラ芸能人にとってはキャラ=人格という図式があてはめられてしまい、風圧をまともに受けることになる。

 ベッキーの場合、報じられたSNSでの「サンキュー、センテンス・スプリング(文春)だね!」という一言が良い人キャラにとどめを刺すことになった。その後は龍之介の言うような大衆のジェラシーに火が付いた。彼女は先日復帰をしたらしいのだけれど余程戦略を練り直さないと難しい気がする。大転換してヒールキャラに転向することもあり得るが、それだってそう容易ではない。一つだけ考えられるのは芸no人から「芸」のある存在への転換だ。どこかで映画の脇役でも良いから演技を高く評価されて…。う〜ん、ナンシーならなんと言うだろうか?


becky11b.jpg


eyej0236233.gif
TVNews.gif
TVeyelogo.gif
posted by gillman at 20:12| Comment(4) | TV-Eye | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月02日

テレビの向こう側

テレビの向こう側

HRM.gif

 いつも思うのだが、ぼくのようなありふれた市井の人間がどうしたら今世の中で起こっていることについて本当のことを知ることができるんだろうか。金と時間があればそのことが起こっている現場に行くのが良いのかも知れないけれど、そこに行ったって真実が見えるとは限らないし、第一何かが起こるたびにそこに駆けつけていたら自分の仕事なんか出来なくなってしまう。

 そこで、ぼくの代わりにそういうことをやってくれているテレビや新聞やジャーナリストと称される人達がいる。それはとても便利だしありがたい。それに時間の節約にもなる。特にテレビなどの映像を伴った情報にふれるとぼくらはそれを自分の目でみたような気になる。本当のことを知ったような気持ちになる。

 今回の大震災でぼくらは色々なものを目にしたし、記者会見やニュースを通じてありとあらゆる情報にも触れた。で、本当のことを知ったような気持ちに今なっているだろうか。なんだか、どんどんおかしいぞという気持ちになっている。東電だって、政府の言うことだってなんとか委員会だって、なんか変だぞという感じがしている。

 もっといえば、それらの動きを伝えるテレビや新聞等もなんか変だぞという気がしている。記者会見だって、通り一遍の質問の部分しか流さないし、アメリカの衛星画像ではとっくの昔に確認でき海外の新聞などには出ていた福島原発の惨状を示す写真もでてこないで、「30キロ先から撮影しています」なんてご丁寧なキャプションをつけたボンヤリとふやけた映像を流し続けていた。

 さっき、ぼくの代わりにそれをやってくれると言ったが、あくまでそれはぼくの代わりであってぼくではないから、そこにはぼくと違ったフィルターがかかっている。それは、ぼくが見る時にはぼくに都合のいいフィルターが掛かってしまうように、ぼくの代わりに見て来てくれた人に都合のいいフィルターが掛かっているはずなのだ。

 ぼくらはテレビなどを例え自分の目で見たとしても、そこには既に誰かのフィルターが掛かっていることを思い出して、デジタルカメラのように補正して見なければならないのだけれど、それは口で言う程容易いことではない。デジタルカメラの画像だってちゃんと補正するためにはパラメーターを設定しなければならない。つまり事実が曲げられる要素を勘案して補正しなければならないのだ。

 ぼく自身昔、企業の広報部門を担当して情報を送り出す側だったこともあるので、フィルターのかかっていない情報などあり得ない事は承知しているつもりだ。それはテレビで見る記者会見の映像にも言える事だ。以前、ホリエモン氏の記者会見の映像を見ていて、これは最初から結論ありきの絵作りだと思ったことがある。そこにはいかに吊るし上げを演出できるかという意図があったように思えた。

 昔まだ現役の頃、危機管理会社のコンサルティングを受けたことがあるがその時、いくつかのコンサル項目の一つとして謝罪記者会見の模擬訓練をしたことがある。そこには現役のテレビ局のカメラマンや記者なども覆面で参加していた。取材をし情報を送り出す側のプロの立場から幾つかアドバイスももらった。

 会見の席には、高級ブランドものの時計などは身につけて出ないこと。必ずアップで抜かれて視聴者の反感を買う絵作りをされる。会見者の足元が見えないように会見席にはテーブルクロスをかける。顔では神妙に謝っていても、足元の形相がだらし無いとそこをカメラに抜かれる。会見中は筆記具などは手に持たない。話をしながらボールペンなどをいじっていると、それが無意識の行為であってもアップにされると苛立ってみえたり、ちゃんと話を聴いていないようにみえて誠意を疑われかねない。記者会見の席のセッティングの際、会見者のテーブルは背後の壁にできるだけ近づけて置く。カメラが背後に廻って会見者の手元にある内部資料の映像をすっぱ抜かれないためだ。

 ここには二つの動きがある。真実を暴き出そうというジャーナリズムに基づいた攻防と、取材の方向性つまりあらかじめ想定したストーリーに合わせてフィルターをかけようとする動きだ。ぼくらが自宅の居間で何気なく見ているテレビの向こう側で、もしくはその情報を送り出す過程で何が起こっているか、ぼくなんかにはそう簡単に見抜く事は出来ない。悔しいけど一つのパラメーターで簡単に補正できる程現代は単純ではないかもしれない。

 かと言って全て諦めてしまうのはもっと悔しい気がする。もう少し自分の目と頭で頑張ってみようかなと。なにも真実を突き止めたいなどと大それたことを思っているのではない。只、騙されるのはごめんなのだ。何をしたらいいのかよく分からないけど、とりあえず天才的テレビウオッチャーだったナンシー関のあの言葉は何だったのか今、考えている。

 ■ わたしは「顔面至上主義」を謳う。見えるものしか見ない。しかし目を皿のようにして見る。そして見破る。(河出書房『ナンシー関』より)

 もちろん、ぼくには彼女のように見破る力は無いが、そのうち
何かが拾えるかもしれない。


tvanime.gif
TVeyelogo.gif

posted by gillman at 23:52| Comment(10) | TV-Eye | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月31日

芸人リサイクル

 芸人リサイクル    ~ひな段は芸人のリサイクル場~

edo.jpg

 最近KYということがよく言われているらしい。もちろん「空気読めない」の略だが、この「空気」が曲者だ。古くは山本七平の「空気の研究」なんていうのもあるが、ここでいう空気とは雰囲気くらいの意味だろう。しかし、その底には、その場を支配している何か漠としたものに反対することの恐れが横たわっているという意味では同じルーツを持っていると言えなくもない。

 もう久しくこの「空気」がテレビのお笑い界を覆っている。つまり面白くなくても面白くないとは言わせない空気が蔓延した番組作りをしているからだ。有り体にいえば今旬といわれるエド・はるみなんかはいい例だ。たぶん八割方の人が何が面白いんだと思いながら見ている。もちろん、掴みの「グー」あたりはヘーと思うのだが、それだけである。その程度の掴みなら、小学校時代どのクラスにも一人くらい掴みのうまい子がいたのとなんら変わらない。彼が何か面白いギャグをやると、それは瞬く間にクラス中に広まって、しばらくの間は休み時間はそれでもちきりだが、すぐに飽きられてしまう。

 個人的には彼女を知らないので何とも言えないが、エド・はるみはそう悪そうな人そうには見えない。それだけにつまらない芸がよけい痛々しく見えてしまう。吉本興業としては、「グー」で一発知名度を上げておいて、そのうちレポーターかなんかで定着させようとしているのだと思はうが。その間、毎日つまらない画面を見せられる視聴者はいい面の皮だ。(イヤなら見るなよ、という空気も伝わってくる)

 きっとエド・はるみはいわば新商品を出したい吉本と、旬の過ぎた小島よしおの代わりを求めていたテレビディレクター達との共通した利害関係の中で生まれた案件なのだ。それは小島よしおレーザーラモンHGの後に担ぎ出されて来たプロセスと何も変わりはしないように見える。この軍産共同体ならぬ放産共同体が作りだした戦略は、メディアを駆使して彼らが送りだした芸人達を面白くないとは言わせない「空気」を作り出すことだ。その面白さが分らない奴は笑いが分らないのだという空気を作り出す、いわばお笑いのファシズムみたいな図式だ。だが、少しは気概のある人間がテレビ界にいたなら、こんなんでいいのだろうかと思うに違いない。毎年のように芸人を使い捨てにしていいのか。

 そこは天も見捨てたものではない。そんな状況を救うべく芸人リサイクルの市場がちゃんと今は出来上がっている。今、どこのチャンネルを回しても「ひな壇芸人」のオンパレードだ。MCと呼ばれる殆ど一人で番組のギャラをかっさらっていくような司会者の前に、その他大勢の芸能界人がひな壇に並んでいる。そのMCが投げたボールにうまく食いついた芸人の顔をすかさずカメラが抜いてゆく。きっとダラダラとカメラを回しっぱなしにして、後で編集をして番組に仕立てているのだろう。

 このMCと「ひな壇」のやりかたは、僕の知る限りでは1990年代の中盤に始まった「サンマの恋のから騒ぎ」あたりから始まっていると思う。外国人のお姉ちゃんや女子大生やその他怪しげなシロウトひな壇に並べてサンマと掛け合いをやらせる番組だ。この方式なら相手がシロウトでもうまい具合に食いついてきたところをつなげれば番組になってゆく。なかには西川史子みたいに勘違いしてタレントになってしまったギャル(今は、もとギャルか)もいたりするが、基本はシロウト相手のギミックなのだ。その仕掛けが今は芸人のリサイクルに使われている。

 よく見れば、いるわいるわ。ダンディ坂野レーザーラモンHGからギター侍、はてはあの猿岩石のなんていったっけ、あの人まで。つまりは皆シロウトと同じということか。だが、やはり高いギャラをもらっているMCは気配りも一味違う。中には旧知の芸人もいたりして特別に水を向けたりもしている。もっとも視聴者にとっては迷惑以外の何物でもないのだが… この間も島田伸介ダンディ坂野に振ったとき、彼はお決まりの「ゲッツ!」をやったが、当然旬を過ぎたギャグは
面白くもなんともない。もちろん伸介も面白くないことを承知で振っているのだが… そうやって笑いとテレビがどんどんねじ曲がり、つまらなくなってゆくのはなんとも哀しい。

eyej0236233.gif

ぼくは海外に行くとよくホテル等でその国のテレビを見ます。
もちろん、どの国へ行っても日本のお笑い番組のようなものはあります。
しかし、どのチャンネルを回してもそんなものばかりやっている国はそうはありません。
それも同じような芸人が、同じようなことを際限なくやっている。
日本のテレビのプロデューサーってどうなんでしょう。
テレビでも、もっとちゃんと「」を見せられる場をつくってやらないと、
芸人さん達がかわいそうな気がします。
その上でちゃんと「」を見せられる芸人さんを世に出すのが、
プロデューサーの役目でもあるような気がしますが…

posted by gillman at 18:17| Comment(8) | TV-Eye | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月12日

巨匠は笑えない

 巨匠は笑えない

tksb080225_1.jpeg

 毎回かぶりものをかぶったビートたけしがいきなり登場して、スタジオの観客や出演者にスプレーや水をかけてパニックに陥らせる。観客は(観客席には最初から水除けのビニールがかかっていたりするが)びっくり、出演者たちも大はしゃぎで逃げ回ったりする。

 「世界まる見え!テレビ特捜部」はこのビートたけしのかぶりものイントロで始まる。もちろんスタジオにいる観客は普段見られないタレントが間近で見られるからはしゃいでいても当然だが、楠田枝里子所ジョージをはじめとする出演者も変にはしゃいでいる。というか、巨匠たけしがこんな面白いことをなさっているという「持ち上げ感」がありありでテレビの前に座っているこっちはどんどんシラけていってしまう。

 このかぶりものイントロはもちろんあの「おれたちひょうきん族」のたけちゃんマンなどの延長線上にある芸なんだと思うが、彼のお笑いにあの時代の輝きはない。テレビの前に座っていて最近すごく気になるのが、お笑い界の「巨匠」と呼ばれる(もしくは本人や周囲がそう思っている)タレントが出ているときに周りの芸人達が発する「持ち上げ光線」がこちらの素直なお笑い感を損なっていることだ。

 このビートたけしをはじめ、タモリサンマの出ているときには必ず、周りの芸人からこの「持ち上げ光線」が発せられている。最近はこの「持ち上げ光線」が島田紳助などにも向けられていることもすごく気になる。もちろん芸人間での成功者や先輩などに対するリスペクトは必要だろうが、それは楽屋でやってもらいたい。かつてテレビに出た時の桂三枝の巨匠振りが気に障って仕方なかったが、最近三枝自体がテレビに余りでなくなったのでほっとしている。

 話をビートたけしにもどすと、少なくともサンマタモリは今でもお笑いの延長線上で生きている。周りの「持ち上げ光線」の中であっても「笑っていいとも」でのタモリの振る舞いは辛うじてお笑いのカテゴリーに納まっているが、今のビートたけしの「かぶりもの芸」は寒いという他はない。ビートたけしはお笑い界の巨匠であると共に今や映画界の巨匠でもあることを十分意識している。そのギャップが大きければ大きいほど両方の領域での巨匠感を増幅することを知っているのだ。だがそれもそろそろ鼻につき始めている。

 映画監督として数々の映画賞を手にしたということは、テレビのお笑い界からすればいわば既に「あちら側」に行ってしまった人である。一旦「あちら側」に行ってしまった芸人が時々「こちら側」に戻ってきてテレビの中でいくらお笑いをしても、「他人を笑わせる」というよりは「他人に笑われる」芸を主体としたテレビのお笑いの世界では、テレビのこちらにいる笑う側はもう素直に笑えないのだということをビートたけしは知るべきなのだ。

 やはり「画伯」として「あちら側」に行ってしまったツルちゃんこと片岡鶴太郎が時たまトーク番組に出て「とびます、とびます」とか「ピー、ピー、ピーコちゃんじゃありませんか」といっても周りは失笑するばかりだ。もっとも鶴太郎の場合は彼からもう「こちら側」には戻りたくないという空気が出ているし、またお笑いの巨匠でもなかったこともあるが。

eyej0236233.gif

 お笑い人としてのビートたけしの本当の面白さは、ツービート時代を見ていないと語れないと思っています。作品毎の落差は大きいように思いますが、映画監督としても素晴らしいことも間違いないと思います。ぼくは特に彼の「座頭市」が好きですね。彼はベネチア映画賞までとった監督が、おどけてかぶりもの芸をすることで、その落差によって監督業の方の深さが際立つことを知っています。かぶりものはいわばその落差の象徴なんですね。しかし、もしたけしが表芸としてかぶりもの芸を続けているならその効果もあるかもしれませんが、他の芸人や芸能人に囲まれその「持ち上げ光線」の中でやっていたのでは、ただの旦那芸になってしまい逆効果なのだと思います。テレビ東京の「たけしだれでもピカソ」などで芸を語るトークではいい味がでているのだから、かぶりものはもう若手芸人に任せたらどうかと思うんですが…どうなんでしょう

posted by gillman at 22:14| Comment(13) | TV-Eye | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月05日

スザンヌの時代

 スザンヌの時代

すざんぬDsc_1424.jpg

 「クイズヘキサゴン」でおバカタレントが大ブレークして以来、どのチャンネルを回してもスザンヌつるの剛士をはじめとするおバカ三人組の顔を見ない日はない。「クイズヘキサゴン」は番組が始まった当初はその名の通り六角形のテーブルに六人のタレントが相対して知識と駆け引きを競うクイズ番組だった。それはそれで結構面白かったのだが、いつのまにかクイズ番組というよりはひな壇芸人島田紳助とのトークを楽しむという趣に変わってきた。

 番組がそういう形になると紳助の舌鋒はもちろん正解の時よりも不正解の時の方が鋭く、つっこみも見てても面白いということになる。つまり、今の番組の作りではケタ外れの不正解が番組の進行上不可欠なものとなったのだ。今までお利口タレントとして看板を張っていたラサール石井麻木久仁子たちは、一転しておバカタレントの引き立て役に回らざるを得なくなってしまったのはなんとも皮肉だ。

 このスタイルが定着し始めると、紳助のトークだけでなくおバカタレントの存在自体が世間の注目を浴びるようになった。それはもちろんそのおバカぶりが視聴者の優越感をくすぐるからでもあるが、同時に番組に登場するおバカタレントに共通する「常識のなさ+屈託のなさ、もしくは+潔さ」みたいなものが変に共感を得てしまったからだと思う。つまり「爽やかおバカ」という新たな芸能界のセグメントを作り出したわけだ。

 彼らが登場する背景には、視聴者が立て続けに芸能人の腹の立つおバカぶりを見せ付けられ、うんざりしていたということがあるに違いない。「別に…」という不機嫌なおバカ、何かというと自分のことを「うのはね~」といいつつ男と金に目のない傲慢なおバカや「羊水は腐る」という無知蒙昧のおバカ等などに視聴者はイラついていた。そこに、いわば「爽やかおバカ」の登場である。視聴者の気持ちと目が自ずとそちらに向いたのも偶然ではない。

 しかし、スザンヌ達は本当におバカなんだろうか。そんなことは端から誰も本気で思ってはいない。あれも芸のうちと思っているのが半分、あの程度のおバカは身の回りにも結構いると思っているのが半分。現にどう見たってわざと間違えているとしか思えない場合も目に付いてきた。同じ問題を違う間違え方をしたり、うっかり正解してしまったり。おバカを通すのも結構努力がいるのだ。だが、芸としたらその底は意外と浅い。

 この先この爽やかおバカの時代がいつまで続くのか楽しみだ。ヘキサゴンで人気の出たタレント達についていえば、まぁ、プロダクションの戦略は見えている。どこかでおバカ以外のちょっぴりシリアスな面を垣間見せて、テレビドラマかなんかに潜り込むという軌道修正を行うのだろう。でも、その方がいいかも知れない。なんたって、芸能界にガッツ石松がいる限り生半可なおバカキャラでは生き残っていけないのだから。

eyej0236233.gif


 おバカキャラといえば藤山寛美の演じたキャラが有名ですが、大げさに言えば、あれはおバカのフィルターを通して常人が見ることのできない世界を見せてゆくことによって、人生の機微に近づいて行こうとするものでした。その背景には人間のペーソスというウェットな部分があってそれが力になっていたと思います。ガッツ石松にしても世間は彼がかつて世界の頂点に立ったことのある男だと知ったうえで、彼の天然ボケボクシングバカぶりを楽しんでいるところがあると思います。それに対し、スザンヌに代表されるような「爽やか」かも知れないけれど、「乾いたおバカ」の存在が今後どうなってゆくのか楽しみではあります。

*おバカはTVの中のキャラだし、本当のところはわからないけど「愚か」とは違うと思うんです。愚かというのは一流大学をでても、民間にたかったり狭い視野で自分の保身しか考えないような輩のことを言うんだと思いますね。

posted by gillman at 10:11| Comment(4) | TV-Eye | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする