
■ 醜 聞
公衆は醜聞を愛するものである。白蓮事件(びゃくれんじけん)、有島事件、武者小路事件――公衆は如何にこれらの事件に無上の満足を見出したであろう。ではなぜ公衆は醜聞を――殊に世間に名を知られた他人の醜聞を愛するのであろう? グルモンはこれに答えている。――
「隠れたる自己の醜聞も当り前のように見せてくれるから。」
グルモンの答は中(あた)っている。が、必ずしもそればかりではない。醜聞さえ起し得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼等の怯懦(きょうだ)を弁解する好個の武器を見出すのである。同時に又実際には存しない彼等の優越を樹立する、好個の台石を見出すのである。「わたしは白蓮女史ほど美人ではない。しかし白蓮女史よりも貞淑である。」「わたしは有島氏ほど才子ではない。しかし有島氏よりも世間を知っている。」「わたしは武者小路氏ほど……」――公衆は如何にこう云った後、豚のように幸福に熟睡したであろう。
(芥川龍之介「侏儒の言葉」)
今月の12日はぼくの好きなナンシー関の命日だったのだけど、彼女が生きていたら今の芸能界の諸々をどう見ていただろうかと想像したりする。最近は余りリアルタイムでテレビを見ることが少なくなったし、芸能界のニュースも「んなこと、どうでもいいじゃん!」と思うのだけれど、ナンシー関はそうではなかった。
彼女は偉大なるミーハーというか、テレビに登場するスターや芸能人のあり様をテレビのこちら側で穴のあくほど見つめて、直感的に(とは言いつつある意味では極めて論理的に)本質的なものを喝破するという能力を持っていた。そこが偉大なるという所以だと思う。
ナンシーは言う「わたしは"顔面至上主義"を謳う。見えるものしか見ない。しかし目を皿のようにして見る。そして見破る」ぼくらが半ば通り過ぎる背景のように無意識に観ているテレビの画面の向こうに映り込んでいる時代の匂いや、人間や大衆の根っこをナンシーは目を皿のようにして観ていたのだ。
天野祐吉さんがまだ存命のころ、時々ぼくのブログにコメントを入れてくれることがあったのだけれど、以前ぼくがナンシー関のことについて少し書いた時もそこにコメントを入れてくれたことがあった。天野さんはナンシーと仕事をしたことがあったらしいのだが、彼はナンシーの眼力が怖かったと言っていたことを思い出した。
ナンシー関が目を皿のようにしてみていた「芸能人」だけど、ぼくは若い頃から落語が好きなので「芸人」という言葉に畏敬の念を抱いていた。今は「お笑い芸人」などどちらかと言えば軽い感じで使われているような気がする。それに対してこのなんだか良くわからない「芸能人」という言葉の方が使われるようになった。芸[能]人という位だから芸人よりも「能」があるみたいなのだが、実際は歌や踊りや話芸などのいわゆる専門的芸を持っていない「芸no人」を指している場合が多い。別名「タレント」とも言う。
それじゃあ、専門的芸のない彼らは何をもってメディアの海の中を泳ぎ回っているのかというと、これまたよくわからない「キャラ(キャラクター)」というものを武器にして渡り歩いている。曰く、良い人キャラ、おバカキャラ、外人キャラ、インテリキャラ、キモキャラ、いじられキャラ、カマキャラそしてヒールキャラつまり嫌われ者キャラ等々。
これらを敢えて「芸風」と言えば言えないこともないけれど、そもそもその芸風の芯になる「芸」がない中での芸風なのでなかなか難しいことも確かだ。例えば、嫌われ者のヒールなぞは皆から100%嫌われてはメディアから駆逐されてしまうので、時々は無邪気さや、ひたむきさや、人情味や家族思いなどのプラス要素をタイミングをみて垣間見させなければならない。
それによって、いつもはあんな事言っているけど、もしかしたらあの人も本当は良い人なのかも…と、でもこれも出しすぎて元のヒール感を消してしまう程になってはいけない。そのさじ加減が難しい。時折泥まみれになってゲームで頑張るデビ夫人も、さりげなく野村監督が漏らす野村沙知代のプラス情報だってヒールキャラのコントロール情報の一つには違いないのだ。
一方、良い人キャラのトップを走っていたのがベッキーだった。ところがいくつかあるキャラタイプの中でこの「美人で良い人」というキャラは実はとてもリスキーで脆弱性を持ったキャラなのだと思う。先のヒールのキャラが実は良い人かもしれないというアンチ情報が過度に流れてもヒールキャラの力は弱まるかもしれないけれど、致命的ではない。もちろんifレベルだけど、例えば、おバカキャラのスザンヌが学生時代成績が良かったり、ボビー・オロゴンがホントは流ちょうな日本語が話せたり、ウエンツ 瑛士が実は英語がペラペラだったとしても、それは致命的ではない。
ところが、良い人キャラにおいては、実はそれ程良い人ではないかもしれないという情報はそのキャラ芸能人に致命的になることがある。ましてそのキャラの主が美人とあればなおさらだ。冒頭の芥川龍之介の言葉にあるように、それは大衆の持つジェラシーに火をつけ手の付けられない事態を招くからだ。
ちょっと意味はズレるかもしれないけど、それはニーチェの言う一種のルサンチマン(ressentiment)にも通ずる膨大なエネルギーを持っている。これが芸人であれば芸とキャラに一線を画することができるし、そもそも芸自体に善悪はなく巧拙があるのみだから上手くやれば逃げ道はあるのだ。ところがその芸がないキャラ芸能人にとってはキャラ=人格という図式があてはめられてしまい、風圧をまともに受けることになる。
ベッキーの場合、報じられたSNSでの「サンキュー、センテンス・スプリング(文春)だね!」という一言が良い人キャラにとどめを刺すことになった。その後は龍之介の言うような大衆のジェラシーに火が付いた。彼女は先日復帰をしたらしいのだけれど余程戦略を練り直さないと難しい気がする。大転換してヒールキャラに転向することもあり得るが、それだってそう容易ではない。一つだけ考えられるのは芸no人から「芸」のある存在への転換だ。どこかで映画の脇役でも良いから演技を高く評価されて…。う〜ん、ナンシーならなんと言うだろうか?



