2020年02月23日

日本人の質問 黄犬忌

日本人の質問 黄犬忌

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 2月24日ドナルド・キーンさんが亡くなって丸一年になる。養子のキーン誠己(せいき)さんがこの日を「黄犬忌(キーンき)」と名付けたらしいが、これはキーンさんが生前から自分の署名に黄犬(キーン)を良く使っていたかららしい。いつもはぼくの敬愛する人の命日にはブログの左にあるサイドバーで「I remember...」というタイトルで書いているのだけれど、今回は本編の中で少し自分の体験とあわせて書いてみたい。

 ぼくの好きなドナルド・キーンさんの著書に「日本人の質問」というのがあって、昔新書版の本で読んだことがある(二年前くらいに文庫版で再出版されている)。元原稿は多分30年以上も前に書かれたものだから今とは状況も違っているかもしれないが、留学生たちの話を聞いているとキーンさんの書いたことと同じようなことが今でもあるみたいで面白い。

 留学生たちが日本に来て必ず聞かれるのは「納豆は食べられますか?」「お寿司は好きですか?」「生卵は大丈夫?」「皆と一緒に温泉に入れますか?」「日本語は難しいですか?」等など。キーンさんも本書の中で「…日本人でも刺身を食べない人がいるのに、私に「お刺身は無理でしょうね」と尋ねる人は、変な日本人の方には関心を持たないようである。…」と言っている。

 また彼は日本人にあまりうるさく「食べられないものはないか」と聞かれたら「ワニの卵が嫌いです」とか言いたくなる時があるとも…。まぁ、日本人の方は話のとっかかりの一つとして聞いている面もあるのだけれど、のべつ幕なしに同じような事を聞かれる方にとってはたまらないかもしれない。ましてやキーンさんのように日本に何十年も住んでいて、日本文化に関する知識もそんじょそこらの日本人にはかなわないような人にとっては尚更である。

 ぼくが以前大学で日本語教室の社会人クラスを担当していた時も、もう長いこと日本に住んでいる外国人の受講生もいて同じようなことを言っていた。そんな時どういう風に答えているかが興味もあったので、何人かの受講生たちと話してどんなことを聞かれたかメモしてみた。極めて個人的な質問もあったけれど、そういうものを除くとやはり食べ物に関してが多い。あとは自分の国の事とか、日本で驚いたこと、行きたい場所など等…。

 そういった質問を30個くらいカードにして、各々の項目を複数枚つくり全部で60枚くらいの「日本人の質問」カードを作った。遊び方はいろいろあるけど、その時は授業の前にいわゆるアイスブレイクという時間をとってその時の話題とか、今週はどうでしたか、とか軽い会話をして場の緊張を解いてから授業に入るのだけれど、学生から中々言葉が出てこない。そこで授業の初めにこのカードを一枚づつひいてもらって、その質問に答えてもらうということにした。

 最初はどんな質問が出るかかえつて緊張していたけれど、大体は以前聞かれたことがあるのでバスする学生は少なくなった。また他の人の答えに対して自分はこう答えたとか会話の広がりも出てきたことを覚えている。今はあまり使っていないが、今度初めての学生の自己紹介の時に各自一枚ひいてもらうというのをやってみようと思っている。まぁ、キーンさんはもうたくさん、と言っているかもしれないけど…。


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ドナルド・キーンさんの日本文化に関する著書の中でも比較的読みやすく、日本人が自分の文化を見直す良いきっかけになりそうな本で「日本人の質問」以外にも下記の本が特に面白かった。(すべて文庫本)

■「日本語の美」…ぼくらがもう忘れてしまった、日本語が現代日本語にたどり着くまでに特に明治時代以降に起きていたことや、Ⅱ部ではキーンさんの広い交友の中での人物像なども語られていて興味深い。

■「果てしなく美しい日本」…元は英語で書かれたものを訳者が翻訳している。キーンさんのかなり初期の著書で第一部はLIVING JAPANといういわば日本文化史的な内容であり、二部は世界の中の日本文化と題した日本文化論的エッセイで生涯変わらなかった彼の日本への愛の原点のような著書。読みごたえがある。

■「日本人の美意識」…中世からの日本文学や演劇に造詣の深いキーンさんの目から見た日本文化、そしてそれが明治以降にどう変質していったかという洞察も興味深い。そして日本人が持つ曖昧性に根付いた美意識など、指摘されて初めて思い当たる点もあり、これも読み応えのある本となっている。


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[もう少しだけ…]
 
 キーンさんは「日本人の質問」の中でこう言っている。「…口に合わないものを外国人に食べさせたくないと思うのは、日本人の親切心のあらわれと思われるが、その裏には「日本の特殊性」という意識が潜在している…」と日本人の特殊主義のようなものを見抜いている。

 例えば「日本語は難しいでしょ」と言うが、世界には東欧系の言葉のように難しい言語は沢山あるのだけれど、本当の日本語は外国人には無理だと思っている。歌舞伎にしたって、能にしたって会場で外国人を見かけると何の根拠もなしに「わかるのかしら…」なんて思ったりして。

 もちろんそんなことはぼくら日本人がドイツのバイロイト音楽祭に行けば、日本人にワグナーが分かるのかみたいな反応には会うので、言わば「文化の血の驕り」みたいなのはどこの世界にもあるのだけれど、それが日本には強いように思う。この「特殊主義」みたいなものは民族のアイデンティティとは少し違って、とにかく日本文化の多方面で自分たちは特殊で他からは中々理解されにくいという信仰みたいなものがはびこっているような気がする。

 例えばドイツで言えば勿論ドイツなりのアイデンティティはあっても、その底流に西欧文明というものへの心理的なしっかりとした親和感みたいなものがあるのだけれど、それでは日本に中国文明に対するそういった親和感が今あるかというと、それは中々素直に認めたがらない心理が働いているらしい。難しいことはよく分からないけど、どうもそうなったのは日清戦争以降で、それ以前は文化人たるもの教養の基本はヨーロッパ人にとってのラテン語のように中国文化だった。(逆に日本文化は中国文化の亜流だと自虐的に言う日本人もいるが、それにもキーンさんは異をとなえているが…)

 そこらへんはキーンさんも「日本人の美意識」の中で少し触れている。さらに日本文化の特殊性ということについてキーンさんはそれを認めつつも、日本人が世界と分かり合える道筋を「特殊性の中にある普遍性」という言葉を示してぼくらに勇気を与えてくれているので、少し長いけれど引用をしておきたい。それはぼくにとって生涯の珠玉の言葉となっている。

 「…日本の全てが西洋を逆さまにしていると書きたがる旅行者は現在でもいるし、一方で日本の特殊性を喜ぶ日本人も少なくない。
 
 が、私の生涯の仕事は、まさにそれとは反対の方向にある。日本文学の特殊性---俳句のような短詩形や幽玄、「もののあはれ」等の特徴を十分に意識しているつもりだが、その中に何かの普遍性を感じなかったら、欧米人の心に訴えることができないと思っているので、いつも「特殊性の中にある普遍性」を探求している。

 日本文学の特殊性は決して否定できない。他国の文学と変わらなかったら、翻訳する価値がないだろう。日本料理についても同じ事が言える。中華料理や洋食と違うからこそ、海外において日本料理がはやっている。が、いくら珍しくても、万人の口に合うようなおいしさがなければ、長くは流行しない。納豆、このわた、鮒鮨などは日本料理の粋かも知れないが、日本料理はおいしいと言う時、もっと普遍性のある食べ物を指している。…」
 (「日本人の質問」)
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2019年05月24日

日本語 食べ物カルタ

日本語 食べ物カルタ


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 日本語学校で週に一度、留学生たちの日本語学習のサポート活動を始めて15年以上になるのだけど、最初は片言の日本語しか話せなかった若者達が卒業間際には自分の国の文化の話や人生の話まで語り合えるようになるのを見ると何とも言えない喜びを感じる。

 とは言え、最初の初級の段階では意思の疎通もままならずお互い歯がゆい思いをすることも多い。そこら辺についても長いこと苦労しているのだが、今までの経験からすると食べ物の話が比較的入りやすい気がする。最近は日本食への関心も高いし、何といっても日本で暮らし始めたその日から何を食べるかという問題は付いて回るのだ。

 今はネットがあるから学生たちは寿司や天ぷらなどの伝統的和食だけでなくたこ焼きとかお好み焼きなんかも結構知っている。そうは言っても初級では中々言葉で表現したり、説明を理解したりするのも難しい。今まではiPadに写真を入れて話の端々に見せていたのだが、この間の連休中に「食べ物カルタ」なるものを考えて作ってみた。

 日本人が良く食べる料理やお菓子など100種類のカードを作って、表にはその写真、裏にはその名称を平仮名と漢字などで表示し、場合によっては関連する単語などを載せた。料理は日本料理とは限らない、ハンバーグや餃子など留学生が街で目にするようなものについても入れることにした。


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 100枚のカードは30枚くらいの初級(青)・中級(黄)・上級(赤)の3つのグループにぼくが勝手に分けてみた。例えば初級なら「ごはん」「そば」「ラーメン」「すし」など基本的なものが入っており、中級になると「肉じゃが」「冷奴」「稲荷ずし」などもう一つひねったもの、そして上級になると「握り寿司のネタ(こはだ等)や「精進料理」「懐石料理」「ふぐ刺し」(ぼくも一度しか食べたことはないけど…)など外国人にはかなりマニアックなものが入ってくる。

 遊び方については、カルタをとるのは留学生で、カルタ取りの読み手は日本語母語話者か比較的上級の日本語学習者がよいと思っている。いっぺんに100枚を広げてはやりにくいので人数にもよるが30枚くらいのランク別にやっていった方が良いと思っている。例えば読み手が自分で目視でカードを確認して「さしみ」と言ったら、学生がその写真のカードをとればオーケーだが、誰も分からず取れなかった時には、読み手が「魚です」とか「丸い黒いお皿に乗ってます」などのヒントを出してゆく。これはヒヤリングの練習になるし、日本語学習の上級者がやれば、ものの外観を日本語で説明する練習にもなる。


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 最終的にはiPadに連動して入れてある大きな写真で確認するようにする。ある程度料理の名前を覚えたら今度はカードの文字面を表にして、iPadで写真を見せてカードを取るようにすれば迅速な文字認識の練習にもなると思う。もちろんこれは日本語の練習でもあるのだけれど、それが主眼ではなくて食べ物の話題をきっかけに日本語でのコミュニケーションを行って、初級の学生にも日本語でのコミュニケーションができる実感を持ってもらうのが眼目なので、途中で盛り上がって話が他の方に行っても、それはそれで大歓迎なのだ。

 最近は留学生の出身国の範囲も広がってイスラム文化圏やヒンドゥーなど宗教的理由で食材が制限されている留学生も増えている。日本ではまだ「ハラル認証」などの食品は普及しておらずぼくの知っている留学生は自炊ですべてまかなっていた。国によって戒律の厳しさは差があるらしいけどやはり食材の由来はとても気になるらしく、以前「かまぼこ」はソーセージだから食べないと言っていた学生がいて、材料は全部魚だと言ったら驚いていたことがあった。彼らに対しても遊びの中でそれとなく日本の食べ物の食材についても知ってもらえればありがたいとも思っている。



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2009年07月30日

動いたのは心

動いたのは心

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  日本語学校の中で留学生たちの日本語学習や異文化理解のお手伝いを始めて早足掛け五年になろうとしている。途中大学院での勉強でしばらくはどうしても時間が取れずに中断した時期を除いては、今も週一度学校にお邪魔して活動をしている。ぼくがいっている日本語学校の学生は今は韓国、台湾、中国、タイなどのアジア圏からの若者が多く、中でも韓国からの学生が半分以上を占めている。ここで日本語を学んでから日本の大学や専門学校に進みたいと希望している学生が多いが、日本語学校卒業後に日本での就職を望んでいたり、国の大学を休学して日本語を学びに来ているので一年後には国の大学に戻るという学生も多い。

 年齢的には17歳くらいから稀に30歳近くの学生もいるが大半は20歳台の若者だ。とくに韓国からの学生は日本での生活が親元を離れての初めての一人暮らしというケースが結構多い。韓国にいた時はアルバイトの経験もない子が、日本に来てはじめて一人暮らしでアルバイトをしながら学校に通うという、いわば自立生活をはじめるわけだ。つまり彼らにとっては日本留学が初めての異国生活であると同時に、働くことを通じて社会と関わる初めての体験でもある。バイトを始めれば雇い主に叱られたり、客にからかわれたり、いいことばかりではなく厳しい社会の風にも晒されることになる。それなりにストレスがかかることが想像できる。

 実はぼく自身も40年くらい前に同じような体験をしているので他の人よりは彼らの気持が理解できるのではないかと思っているが、もちろん時代は変わるから環境も大きく変わっている。ぼくの時代にはインターネットも国際携帯電話もメールもなかったから、自分の本国は手紙でしか連絡のできない遠い存在だった。それに比べると今の留学生は毎日インターネットで韓国語など母国語のニュースを見、携帯で親や友達とも頻繁に話をしたりメールを交換したりしているので大分恵まれているのかもしれない。

 とはいえ、言葉も不慣れな異文化の中で暮らすということは実に疲れることだと思っている。普段、学生と話していてもそんな苦労が伝わってくる。今週の初め、この日本語学校で日本語のスピーチコンテストが開かれた。ぼくも招かれて一日学生の日本語スピーチに耳を傾けることとなった。午前が中・上級の部で、午後に初級の学生のスピーチが行われたが、どれも素晴らしかった。ぼくの知っている学生も何人かスピーチを行った。スピーチの内容は彼らの日本でのフレッシュな体験が語られていて、それは日本語のつたなさを十分補って余りあるものを伝えていたと思う。

 どれも素晴らしかったが、その中でも一人の韓国人の女性の「店長様」というスピーチが特に印象に残った。今、彼女は食堂でバイトをしながら日本語学校に通っている。食堂では厨房の仕事が主で最初は言葉もよく通じないから大変だったようだ。その上、その食堂の店長は噂では元ヤクザといわれる怖そうな男性でバイト仲間も怖がっていた。ある時彼女は厨房で作業をしている時にあやまって何枚かの皿を割ってしまった。すると店長がすぐ彼女の所にとんで来た。一瞬、彼女はきっと殴られる、いや、もしかしたら殺されるかもしれないと怖れた。店長は彼女の前に立つと、彼女の手にまだ割れずに残っていた一枚の皿をひったくってとると、そのまま手を放して皿を床に落とした。皿は当然床の上で割れてしまった。「ほら、皿はもともと割れるもんなんだよ。そんなこと気にするな。そんなことより怪我はないか? 大丈夫?」その言葉を聞いて彼女は涙がでた。それ以来バイト仲間ではその店長のことを陰では「店長様」と呼ぶようになった。

 決して流暢な日本語ではないけれど、彼女のスピーチからはその時の彼女の驚きと感動がしっかりと伝わってきた。言葉は大切だ。ある意味では命と同じくらい大事なものかもしれない。彼女の気持ちがぼくたちに伝わってくるのも、彼女が日本語という言葉を通して伝えてくれたおかげだ。しかしよく考えてみると、その言葉のもとには揺り動かされた彼女の心が最初にあって、それが彼女なりの日本語という言葉を通してぼくたちに訴えかけてきたのだ。最初に動いたのは心。その心が言葉を呼び寄せるのだと思う。外国語をおぼえ、使える単語の数が増すにつれて一つひとつの単語に込める熱は薄まってゆく。留学生も段々と日本語が上手くなって「そつのない日本語」が話せるようになると、それに比例して伝えたいという熱意のようなものが薄れてゆく印象を受けることがある。ぼくらはどうだろうか。ぼくらは母語である日本語を日常使っているから、使える単語の数も留学生とは比べ物にならないほど豊富なはずだ。日々話すぼくの言葉のもとで、心は本当に動いているだろうか、彼女の日本語のように。

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 *この「店長様」の話は古典落語の「厩火事」を彷彿とさせます。長屋の女房が亭主が大事にしている茶碗と自分とどっちを大事に思っているか知りたくて、孔子の例にならって亭主の前で大事な茶碗を割って見せて亭主の気持ちを試すという話ですね。亭主が茶碗よりも自分の身体の方を心配してくれれば…、という話ですが、もちろん韓国の女性はそんな落語は知るはずもなく、実際にあったことだと思います。
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2008年07月01日

日本語パトロール 「こっぱずかしい」

日本語パトロール 「こっぱずかしい」

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 クルム・伊達公子がカムバックして気を吐いている。彼女は見事に世界ランキング上位に食い込んだにも関わらず、十数年前に突然引退してしまった。以来、テニスの一線からは退いて外国人レーサーの妻におさまっていたが、それでも時々はテニスの解説などで姿を見せてはいた。その彼女の姿は現役の時の厳しい、そして時にはとても辛そうな表情とは打って変って、明るくなんとなくセレブっぽい奥さまの香りさえ漂わせていた。

 その彼女が今度はいきなりのカムバック、しかも国内大会とはいえ破竹の勢いで優勝までかっさらってしまった。日本の若手プレーヤーは何をしているんだという叱咤もあるが、それよりも今度は笑顔を携えて戻ってきた伊達に拍手を送りたい。だが彼女が優勝インタビューで答えた時の「こっぱずかしい!」というコメントが一部で物議をかもしている。

 先日、TBSラジオの大沢悠里のゆうゆうワイドに伊達が出演した時に、パーソナリティーの大沢悠里が「こっぱずかしい、なんて最近あまり言わないですよねぇ」と少し揶揄するようなトーンで言っていた。また日曜日、朝のテレビでもコメンテーターの大沢親分なども「あんまり、いい言葉じゃねぇなぁ」などと言っていた。しかし、ぼくはこの伊達の「こっぱずかしい」という一言で伊達が以前よりずっと好きになった。

 「こっぱずかしい」、とは小恥ずかしいということだが、微妙な感覚を持っている言葉だ。優勝して褒められてうれしいような、それでいて何となく恥ずかしいような複雑な気持ちを表している。久しぶりに表舞台に立っていきなり優勝してしまったが、大人げなくしゃかりきになって頑張ってしまった自分にちょっと恥ずかしかったり、それほどメジャーでもない国内大会なのに大騒ぎされてちょっと恥ずかしかったり、その気持ちがよく表れている。

 元来この小恥ずかしいの「」は「なんとなく」とか「言うに言われない」とかいう意味だ。ぎれいな、じんまり、じゃれた、粋な、ざっぱりといった言葉に付けられている「/」とおなじだが、同時にこの「」には「そんな状態が居心地が悪い」という意味も含まれていると思う。うるさい、憎らしい、賢しい、癪な等の「」の部分だ。つまりこの「こっぱずかしい」というのに一番近い言葉を探すと「何となくきまりが悪い」というのがそれに当たるかもしれない。

 だが「何となくきまりわるい」では、今回の伊達のカムバックのコメントとしては相応しくない。伊達のこの「こっぱずかしい」という表現は、彼女の過去の根暗っぽいテニスプレーヤー時代のイメージと同時にクルム・伊達というちょっとセレブっぽいイメージをも捨てた、明るい屈託のない新たなテニスプレーヤーとしての彼女のメッセージだったのではないのか。「こっぱずかしい」といういささか砕けた、スランギーな表現に彼女のポジションをシフトさせる意思が込められている。少なくともぼくにはそう感じられた。そうだとしたら、極めて戦略的な発言だと思う。今回の彼女のカムバックも周到な準備の末になされたとすれば、それも十分あり得る話だ。

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2007年12月19日

にほんごパトロール オカマってなぁに

日本語パトロール オカマってなぁに

         
オカマは、どういう意味ですか?」 
 タイの留学生と雑談している時、いきなり聞かれた。タイから来たS君は初級から中級になったばかりだが、日本に来て段々と日本語に耳が慣れてくると、いろいろな言葉が気になってくるらしい。それにアルバイトを始めると、アルバイト先でも職場の日本人からいろいろなことを聞いてくる。
「そんな単語どこで知ったの?」
「ぼくがタイ人だというと、タイのオカマは有名ですね、といわれます。タイのオカマはきれいですね、もよくいわれます。オカマ、日本人は好きですか?」

 なんと答えていいか返答に窮する。まず、オカマの説明を試みるがやっと初級から抜け出したばかりの彼には難しい言葉は使えないから
「男の人を好きな男の人とか、女性の洋服を着るのが好きな男の人」
とかいったがピンと来ない。最後に禁じ手の英語を使ってゲイとかホモセクシャルのことだというと、すんなり納得。
すると「日本の人にオカマは失礼ですか(日本のゲイの人にオカマと言うと失礼になるか)?」
と聞いてきた。そりゃ、面と向かって言われたら怒ると思うから、
「その言葉は使わない方がいいよ」というと
「じゃ、なんて言いますか?」

 また返答に困っていると、その場にいた台湾から来た女性のPさんが
ニューハーフじゃないですか?」
Pさんもやっと初級を抜け出してこの秋から中級の仲間入りしたのだが、日本のテレビが好きでいつもみているから「どんだけー」とか、いろんな新しい言葉を知っている。
「うーん、確かにタイのゲイはニューハーフって言えるんだけど、ゲイのひと全部をニューハーフって言うわけじゃないんだ」
Pさんは得意げに「そうですね、ピーコはニューハーフじゃないですね。あれはオカマですよね」
S君「え、そうなんですか? 何が違いますか?」
「えーと、ニューハーフというのは男性だけど女性に見える人。オカマというのは男の人が好きな男の人で…」

 段々とこっちの頭が痺れてきた。普段そんなことをしっかり定義したり、深く考えたりしないで使っているし、どんな時にこんな表現や言葉を使ってはいけない、という日本人としての暗黙の意識があるから、面と向かって、あっけらかんと聞かれるとどうにも応えずらい。
そこに、たたみ込むようにS君が「ハーフって"あいのこ"ですね。 なんでニューですか?」
ときた。その間にPさんは素早く、電子辞書の広辞苑で"あいのこ"を引いて
「ああ、混血児ですね。新しい混血児という意味?」という。
ああ、もう収拾がつかない。
このあと、一息入れて大体の意味と辞書には出ているけれども、今は、例えば「あいのこ」等の
日本語は余り使われず「ハーフ」と言うことなどを説明したが、彼らのお陰で言葉というものが単に意味だけで構成されているものではないことを再認識させられた。と同時に僕たちの本当に言いたいことが、実はもう日本語では言えなくなっていることにも気付かされた。

 ハーフだって、ゲイだって同じ肌触りでおおっぴらに使える日本語は、現在のぼくらの語彙の中にはない。オカマはもちろん同性愛者、それに混血児やあいのこ等という日本語はぼく等にとっては、いわゆる手垢のついた言葉になってしまって使えない語彙になっている。手垢とはもちろん主に無神経かつ差別的に使われてきたということだが。そこらへんの感覚や事情は外国人の彼らにはわかりにくいから辞書に載っていれば使ってしまう。

 考えてみれば、ぼく達日本人はそれらの手垢のついた日本語を、なんとか他の日本語や新しい日本語の語彙で表現する努力をしないで、安直に外来語で置き換えてきたのかも知れない。そのほうがオブラートに包まれて薄められてゆくからだろう。もっとすごいのはニューハーフのように、どこの国にもない言葉さえ作り出してしまうことだ。しかし、それはある意味では天ぷらの衣を変えただけで中の具は何も変わっていないのかもしれない。ぼくらの周りにはそんな言葉があふれている。S君の言葉はそんな変化してゆく日本語の現状に気づかせてくれた。

                                         
 写真のグループはタイのニューハーフのアイドル・グループ「Vinus Flytrap」(ヴィーナス・蠅とり草)です。世界はめまぐるしく変化しています。言葉もぼくらの意識もそのスピードについて行けるのでしょうか。中級以上の日本語を学ぶ外国人学習者にカタカナ語をどこまで、どういう風に教えてゆくかも大きな問題です。 

posted by gillman at 18:12| Comment(5) | にほんご | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする