2024年11月21日

Oktoberfest ドイツ人のはっちゃけ方

Oktoberfest ドイツ人のはっちゃけ方
 
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 オクトーバーフェスト期間中のミュンヘンは会場以外でも町中に人が溢れている。市内にある老舗のビール醸造所のビアホールも満員。アウグスティーナーのビアケラー(上写真)も体育館みたいに広いビヤホールに人がいっぱい。普段は楽団が入る舞台の上まで客席になっている。

 とは言え、せっかくオクトーバーフェストの期間中にミュンヘンに来たのだからできれば会場のテントの中で飲みたいし、その雰囲気も味わいたい。オクトーバーフェストは9月末から10月の第1日曜日を最終日とする16日間、市内のテレージエンヴィーゼ(通称ヴィズン)という普段は広大な平原に特設テントを設けてその中で行われる。

 テントだけでなく移動式遊園地も出てジェットコースターなんかもあったりする。テントというと小規模なものを思い浮かべるけど、実際は7000人以上も入る巨大な体育館のようなもので、その大きなテントが醸造所ごとに7カ所くらい立ち並ぶから壮観。なにしろ最近は期間中に800万人の人が訪れるらしいから…。しかもみんな酔っぱらう。


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 ガイドの人の話ではテントの中のテーブル席は特に夜は企業や団体の予約で入れる余地は無いらしい。かろうじて昼前の時間帯ならいくつかテントを廻れば空きにぶつかるかもしれないとのこと。ということであわよくばそこでビールと昼飯にあずかろうと会場に出向いた。運よく人気のビール醸造所Paulaner(パウラーナー)のテントで席を見つけることができた。

 昼前だというのにテントの中はもう盛り上がっている。音楽に合わせて、もしくは音楽に関係なくあちこちで怒涛のようなどよめきが起こる。とにかく座ってビールを頼むが、ビールは1リットル入りのジョッキしかない。しかも重い。カミさんなんかは両手でもたないと飲めない。

 中央につくられた一段高いオーケストラボックスではずっと演奏がされているが、時折「乾杯の歌」が演奏されると大変な騒ぎ。バイエルンの民族衣装である男性はレーダーホーゼと呼ばれる皮の半ズボン、女性はディアンドルと呼ばれるメイドカフェでおなじみのあの格好した男女が1リットルのジョッキを軽々と掲げて乾杯。

 「乾杯の歌」以上に盛り上がったのは、ジョン・デンバーの名曲"Country Roads"が演奏されたとき。♪Country Roads take me home to the place I belong...というサビのところにくるとテントを揺るがすような大合唱。スゲ~、の一言。でも、まだ昼前。昔まだ若いころ近くの村のワイン祭りで自分も大騒ぎしたことがあるのでドイツ人のはっちゃけ方は知っていたけど、そのエネルギーはまだ健在だった。
 
 *はっちゃける…はね上がったり、おどけたりする。また、ふざけ騒ぐ。「酒の席で—・ける」
 

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 *こちらも酔っぱらいながら懸命にスマホで撮ったのが上の動画です。何となく雰囲気は分かっていただけるのでは…。今見直すと画面の中で腕相撲をしているヤツや張り切って皆を盛り上げているディアンドルの女性やらいて面白いです。最後の方になるとその音頭取りの女性は牛の被り物をしてその牛の角が動いて音頭をとっていたり…飽きないです。

 これだけ飲むと、当然出るものは出る。ぼくも何度か行きましたが、トイレが大変です。特に男性のトイレは普通のではとても間に合いません。説明はしにくいのですが…、廊下のように長いトイレには便器が並んでいるのではなく、壁に長~い雨どいのようなものがあってそれに向かって…です。ドイツ語ではPissoir(ピソワール)と呼んでいるようで、本来は男性用の公衆トイレの事らしいですが、これもそう呼んでいました。

 下ネタで恐縮ですが、東京には「関東の連れション」という男性特有のトイレスタイルがあったりしますが、これはまさしく「ミュンヘンの連れション」ということになりますね。下の絵は1913年制作の絵葉書で「オクトーバーフェストからご挨拶! 男性用ピソワール」となっています。ここでは平民から貴族まで横一線に並んでということですかね。 
 
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Oktoberfest-Postkarte "Gruß vom Oktoberfest!". Männer-Pissoir)1913
Münchner Stadtmuseum, Sammlung Puppentheater
 


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2024年11月11日

半世紀を経て

半世紀を経て

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 ハイデルベルクから南に車で一時間くらい下ったところにマウルブロン(Maulbronn)という小さな町がある。ぼくがここを前回訪れたのは1970年の9月で、それからもう半世紀以上も経ってしまった。友人と車で東ドイツ地区や南ドイツを廻ってハイデルベルクに戻る途中だった。

 ここマウルブロンには12世紀に修道院が立てられて以来いろいろと紆余曲折があったが近世には修道院とともに神学校も併設され、ここではヘルマン・ヘッセケプラーヘルダーリンなども学んでいた。この神学校はシトー派の修道会が運営していたが、ドイツの西部にあるここマウルブロンの神学校は日本でいえばさしずめ関西の有名進学校の灘高あたりになるのかもしれない。

 一方、東ドイツのナウムブルクにはやはりシトー派が運営する神学校シュールプフォルタ(プフォルタ学院と呼ばれ現在も運営されているようだ)があり、そちらはフリードリヒ・ニーチェなどを輩出し、さしずめこちらは開成にあたるだろうか。この二校が当時のドイツで大学の神学部にすすむための代表的なエリート進学校だったようだ。
 
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 話をマウルブロンに戻すと、ヘッセはこの神学校に入るが結局ドロップアウトしてしまい大きな挫折感を味わうことになる。その辺のことは彼の作品「車輪の下」や「ナルチスとゴルトムント」に描かれているがそこに登場するマリアブロンの修道院がこのマウルブロンのことらしい。

 半世紀前にぼくがここを訪れたとき、そこにはまさにヘッセが青春をもがき苦しんだ時間が流れていたような気がした。ぼくが日本に居て勝手に頭の中で作り上げていたドイツの姿が目の前に広がっていたことに興奮した。その日の日記…。
 

1970年9月10日
 …ヘッセの生地カルフ(Calw)による予定であったがアウトバーンが事故で混んでいるので彼が神学校時代を過ごしたマウルブロンに向うことにする。このマウルブロンは僕がこのドイツへ来て以来一番強くドイツというものを感じた村であった。

 ファッハベルク(破風造り)の家々に囲まれた広場に面してヘッセの学んだ僧院が建っている。ロマネスクとゴチックの混じりあった僧院はひっそりと、まるでその中に立っている自分が数百年の昔に戻ったように錯覚させる位だ。

 胸が苦しくなるような感動と同時に何とも言いようのない安らぎが感じられる。本当にこの広場から数台の車と電灯が消えたなら僕には今が何年だか全く分からない。僧院の前のカスタニエの木と静かな音を立てる泉はヘッセの居たころと寸部たがわぬかも知れない。

 ドイツの中をドイツらしさを(むろん僕にとってのドイツらしさでしかないが)求めて駆けまわった結果このマウルブロンのこの広場にそれを見つけたような気がする。口-テンブルクのマルクト広場もハイデルベルクのコルンマルクトも供にドイツの、古きドイツの顔かも知れない。

 しかし僕にはこのひとつも派出さのない、むしろ沈んだ調子のこのクロスターホーフ(修道院)こそ僕のドイツそのものだと思える。段々と暮れてゆく広場の端に立って何回も自分でうなずいてみた。寒くなったらもう一度ここへ来よう。オーバ-の襟を立てて一人でゆっくりと歩いてみて自分の中にあったドイツはこれなんだと納得するのだ。僧院のユースホステルに泊る。


 今読むと恥ずかしくなるほどの高揚の仕方だけれど、当時のぼくはそう感じていたし、その思いは半世紀にわたって自分の中でくすぶり続けて、ある意味で伝説化されてしまったのかもしれない。半世紀を経てそこに再び立ってみると不思議な戸惑いに襲われた。近年世界遺産に指定されて立派なインフォメーションセンターなどができているが、大きくは変わっていない、しかし何かが違う。

 一瞥した外見は大きくは変わっていない。だが、注意深く見ると当時その木陰に癒された僧院の前のこじんまりとしたカスタニエの木は見上げんばかりの大樹になっていたし、敷地内の当時泊まったユースホステルだったと思われる建物はレストランになっていた。でもそれは時の流れで起こる当然の変化に違いない、きっと何よりも変わったのはぼくの方だったのだ。
 
 子供の時すごく広く大きく思えていた原っぱや建物が大人になって行ってみると驚くほど狭く小さいという事はよくあることだけれど…。あ、それとも違うな。失望や落胆とも違うし…。とにかく、この戸惑いに何か名前を付けないことには心が落ち着かない。ぼくはこれをとりあえずNostalgie(ノスタルジー)という言葉で一旦飲み込んでみることにはしたが…。
 

 
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 *旅行などのイベントではぼくは基本的には晴れ男であまり旅先で雨に降られた記憶はないのですが、今回は毎日、冷たい雨が降ったりやんだりでした。その中でたった一日だけ抜けるような青空の日があって、それがこのマウルブロンとハイデルベルクを訪れた日でした。

 マウルブロンの印象が変わった一つの原因はこのイタリアの空のように青く澄みわたった空にもあるかもしれません。モノクロからセピアの色調でぼくの頭の中に定着していたイメージとはとてもかけ離れていました。

 修道院の前の広場の泉の処では、地元の学生らしき若者が地面に持ち物を置いたままで溌溂とした声をあげながらじゃれあっています。それを見て少し心が和らぎました。この修道院の広場は世界遺産になろうとも剥製のモニュメントではなくて、彼らにとっては遊び場なのだと…。半世紀後、彼らの脳裏にのこるマウルブロンの姿はぼくのそれとは違うけれど、それはそれで素晴らしいものなのかもしれません。
 


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2024年10月26日

巡礼みたいに

巡礼みたいに
 
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 長い旅に出るのは実にコロナ以来久しぶりの事だ。今月で手術してから丁度一年になる。旅に行けることを一つの目標にしていたので行けたのは良いけれど、それよりも見切り発車で行ってしまったという方が正しいかもしれない。ステッキをついてドイツの石畳の道を歩き回るのは苦行のように思えたときもある。何だか巡礼みたいだな、と。

 とは言えそれは一つの区切りにもなったことは確かだ。今回訪れた街は殆どが以前にも訪れた処がほとんどなのだけれど二十数年ぶりの街もあれば、中には五十余年ぶりの街もあったりしてその間に変わったもの、変わらなかったものが心の中を去来した。アーヘンの大聖堂のステンドグラスはこんなにも美しかったのかと改めて感動した。若いころ見たときには確かにすごいけれどこんなに感動した覚えはなかった。パリのノートルダムの薔薇窓にもこれほど感動はしなかった。

 逆にマウルブロンのクロスター(修道院)は若いころ訪れてこれこそぼくの心に描いていてたドイツそのものの姿だと感動もし、ずっとそこに居たいと願った場所だったのだけれど、世界遺産に指定されたらしい現在はそういった空気、雰囲気は残ってはいなかった。何だか見てはいけないものを見てしまったような…。自分も観光客として来ていながらそれは矛盾しているけれど、特に21世紀に入って顕著になったオーバーツーリズムというものが、その土地の空気を攪乱し陳腐なものにしてしまっている気はした。

 自分が青春を過ごした静かな街だったハイデルベルクも丁度秋祭りの時期だったとはいえ、町中がまるでディズニーランドのようでどこにも日常の生活臭は残っていなかったのは寂しかった。当時学生の頃は憧れだった目抜き通りの伝統的高級ホテルZum Ritterで昼食をとったけれど、混みあっていてそそくさと急がされて感傷に浸っている間はなかった。恐らくはもう訪れることもないこの街に別れを告げる時、もう少し静かな時期に来ればよかったかな、と。ドイツも大きく変わった気がする。コロナ以前は主に旧東ドイツ地区を旅することが多かったので南部、南西部ドイツは久しぶりなのでよけいに感じたのかもしれない。
 
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2023年12月22日

海よ

 海よ
 
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 コロナ以来、毎年行っていた沖縄に行けてないのが残念でならない。沖縄に行くと言ってもぼくが行っていたのは冬から春にかけてで、いわゆるシーズン中に沖縄を訪れたのは三度しかない。最初は1972年沖縄返還直後に、学生アルバイトでウィーン少年合唱団の日本ツアーに通訳兼子守役として同行したのが最初で、二度目はその数年後に新婚旅行で宮古島へ。その頃は島にはぼくらの泊まったホテルが一軒あるだけだった。そして三度目は会社に入って出張で真夏の那覇に。

 毎年シーズンオフに沖縄を訪れるようになったのは、ずっと後になって会社を辞めて60歳過ぎてから大学院に入って日本語教育の修士論文を書いた時、共同研究者だった女性が沖縄に嫁ぐことになってその結婚式に出席するため那覇に行ったのがきっかけだった。せっかく沖縄に行くのだからと式の数日前に沖縄に入って、数日間離島で過ごしたのが忘れられない経験になった。それ以来、気の置けない友人と現地で落ち合ったり、時には一人旅をしたりという感じで気が付いたら毎年のように沖縄に行くのが当たり前みたいになっていた。離島にも馴染の宿もできた。
 
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 沖縄の海は素晴らしい。でも、前にも書いたけれどぼくは元々大自然よりいつも行く公園のような小自然が好きなのだ。雄大な大自然の中に一人で放り込まれるとその絶景を愛でるよりも、目の前の大自然への畏怖の念からか、なんと言うかゾワゾワ感が身体の中を走りそれに怖気づいてしまってあまり楽しめないことがある。ところが、その大自然の中に人の姿や人の営みを感じられる存在を認めると途端にほっとして…親しみを感じるようになる。かと言って夏の沖縄のように人だらけの大自然は見るに堪えない。という訳で人の少ない時期の沖縄がたまらなく好きなのだ。なんとも厄介な気質なのだけれど、実際そうなのだから仕方がない。

 写真にあるような竹富島の真っ青な海をのぞむ防波堤にじっと佇む母子の姿や、慶良間諸島にある座間味島の見渡す限りの長い長い海岸線にぽつんと見える母子の姿。この時はこの海岸に半日ほどいたけれどそこに居たのはずっと最後までこの母子とぼくだけだった。最後の写真はこれも慶良間諸島の阿嘉島の海岸。この場所はウミガメがよく目撃される場所なのだけれど、シーズンオフには珍しく女の子が三人シュノーケリングをしていた。波けしブロックの上に無造作に脱ぎ捨てられた衣類が島のいかにものんびりした時間を象徴しているようだった。
 

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 *毎年沖縄に行っている頃、友人たちに一体沖縄のどんな所に行っているのかよく聞かれました。そこで10年位前にその時持っていた小さなコンパクトデジカメで初めて動画を撮ってそれを見せるようにしていました。当時のカメラであまり画像は良くありませんがYouTubeに載せましたのでご覧いただければうれしいです。3分ちょっとの短い動画です。

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2022年10月13日

あれから

あれから
 
IMAG0028.JPGメーデーの前日の赤の広場
 

 ■1970年4月30日 モスクワ 曇

 メーデーの前日。朝早く目が覚めた。ねぼけまなこで出窓のところにあるラジオのスイッチを入れる。ロシア語が流れてくる。まるで音楽のようなリズムを持った言葉だ。空気に独特の匂いがある、いやな匂いではない、シベリア鉄道のボストーク号の中の匂いとも違うが、これも何となくなつかしい匂いだ。…

 朝食の後クレムリン、赤の広場を見にゆく。夕方モスクワ河のほとりを散歩する。明日のメーデーのために街は精一杯の化粧をしている。赤い旗、イルミネーション、プラカード、レーニン生誕100年で街には赤い色があふれている。夕方には人々は相変わらずいつものようにモスクワ河のほとりを散歩する。くれなずむ街をながめながらゆっくりと、一歩一歩、歩いてゆく。「ドーブルイベーチェル!(こんばんは!)」すばらしく、そしてどこか寂しげな街だ。精一杯化粧をしてもどこかに泣きぼくろのある女のように、どこか寂しげだ。…

 部屋に帰るとホテルの窓から見えるモスクワ河のむこうに広がった青白いモスクワの街並を飽きることなく見つめていた。中々日が暮れないで段々と、段々と街が青くなってゆく。モスクワ全体が青くなってゆく。窓際のラジオからはずっとロシア語の放送が聞こえている。(日記より)
 

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 なにしろもう半世紀以上も昔の話なので、ぼくの記憶の中でもそれは霧に包まれた林の光景のように一本一本の樹の形は曖昧で全体の雰囲気だけが感じ取れるまでに劣化していた。それが断捨離で行っていた作業、つまり大昔に撮った写真のネガを整理してスキャンするうちにその霧が少しづつ晴れて来た。

 自分でももう忘れていた多くのネガの中にモスクワメーデーの写真が数十枚も紛れていた。熊みたいな大柄なロシア人に揉みくちゃにされながら懸命にシャッターを押していた記憶が残っている。カメラはペンタックスのSPと確かヤシカのレンジファインダーのカメラを持ってゴーリキ通りとマルクス通りを抜けて赤の広場辺りをうろついていた記憶がある。

 ぼくは特に社会主義に関心があった訳でもなかったし、当時の学園紛争の中にあってもいわゆるノンポリといわれる存在で、どちらかと言えば大学の授業を追及集会という闘争の場に変質させてしまった社会主義かぶれの学生達の言動にうんざりしていた方だ。

 とは言えあの時代は日本中が社会主義傾倒者と反共主義者の両極端に揺れていた。モスクワはぼくにとってナホトカからモロッコのカサブランカに至る長い道のりの途上の街に過ぎなかったし、そのルートを選んだのも単に経済的な理由からだった。
 

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 理由は単純にそれだったのだけれど、それでもモスクワは二十歳そこそこのぼくにとって生まれて初めて接した西欧の大都市という意味では計り知れないインパクトを与えた。ソ連政府直営の旅行社に選択の余地なく宿泊させられた摩天楼のようなホテル・ウクライーナはまるで帝政ロシアの幻影のように見えたし、街中を赤く埋め尽くした旗とプラカードを持った人々の熱気に圧倒された。

 それらの熱気は何に向けられていたのかは当時も今も分からない。街に溢れる社会主義のプライドみたいなものとホテルの周り等にたむろする大勢の闇ドル屋、得体の知れない女たち、チューインガム欲しさにそれと交換するバッジをチラつかせる少年達、その何ともちぐはぐな印象が今でも頭にこびりついている。そこに自由の空気は全く感じられなかった。

 メーデーの日の夜12時にモスクワの白ロシア駅からワルシャワ経由ウィーンゆきの「ショパン号」に乗って翌朝ウィーンについた時に感じたあの安堵感と解放感は今でも忘れることが出来ない。身体中の空気を入れ替えたくて大きく深呼吸をした。あれから半世紀、あの赤い帝国があれ程いとも簡単に瓦解するとは当時は考えることもできなかった。あの国の人々はそのショックから未だに抜け出せていないのかもしれない。
 

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and also...
 
posted by gillman at 14:31| Comment(2) | gillman*s Lands | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする