2019年08月11日

断捨離 家族の肖像

断捨離 家族の肖像


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 断捨離の中でも何とも難しいのがアルバムなど写真の扱いで、写真の中には自分で撮ったものだけではなくて、人の結婚式の写真や両親の時代の写真など量としても結構な量になる。

 

 生前、認知症になって記憶の薄れていったに見せてあげるために昔の写真を整理して主なものをスキャナーで取り込んでiPadに入れてそれを見せたりもしていたのだけれど、それでもまだ膨大な写真が残っている。

 

 ここのところ自分の断捨離も兼ねて母の遺品を整理していて今まで見た覚えがない写真が出てきた。撮られたのは昭和十年前後と思われるので、今から八十年位昔の写真だと思われる。写っているのは母の実家で撮られた家族の写真で、この写真はもしかしたらぼくも昔見たのかもしれないけれど記憶にはなかった。

 

 後ろに立っているのが母で、両端に座っているのが祖父と祖母だ。祖母は若い頃は評判の美人だったと母からよく聞かされていたが、そんな面影が残っている。ぼくが物心ついた時にはもうおばあさんという感じだったから、新鮮な感じがする。

 

 祖父もまだ壮年の容姿で、厳格な昔の日本の家長という感じだ。写真には女の子が三人、男の子が三人写っているが、この後さらに一番下の男の子が生まれているので一番上の長女とは20歳以上の開きがあることになる。

 

 この写真は千住のアサヒ写真館のK.Ishiiというシグネチャーの入った台紙に貼られているから写真屋を自宅に呼んで撮ってもらったものと思われる。よく見るといくつか面白いことに気がつく。子供達の真ん中に子犬が座卓に手をついているのが写っている。

 

 ぼくの家でもぼくが子供の頃から犬を飼っていたけれど、その頃は当然のように外で飼っており、ぼくの近所や友達の家でも座敷で犬を飼っている家はしらなかった。それを考えると八十年も前に座敷で犬を飼っていたのは当時としても珍しいのではないか。

 

 それともう一点は、いわばプロの写真屋が撮った写真なのだけれど真ん中に写っている男の子の顔が座卓の上に置かれた花で顔半分が隠れてしまって見えなくなっている。この男の子は長男で後年ばくもずいぶん可愛がってもらった叔父なのだけれど、その叔父の顔には隠したいものなどはなかったから、とても不可解だ。そう思うと、座卓の上の花瓶がなんとも不自然に思える。その時だけ叔父の顔に何かできものでもできていたのかもしれない。

 

 床の間に松らしきものが飾られていることをみると、正月に撮られたと思われるが、その時の幸せそうな家族の肖像と言えるかもしれない。映画の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」ではないけれど、ぼくはその後ここに写っている人物がどんな道をたどったか概略を知ってしまっているので、この写真を見ると複雑な気持ちになる。

 

 母は98歳の天寿を全うしたけれど、この写真の中の二人は若くして夭折しているし、祖父母も後年一番下の男の子が生まれた後に離婚している。祖父が外に愛人を作りそちらにも子供ができたのが原因らしい。祖父母は昔としては珍しく恋愛結婚だったらしいが、最後まで添い遂げることは出来なかった。それらのことごとを思うとこの写真は幸福な形でのこの家族の最後の「家族の肖像」だったような気がする。

 

 

 

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*祖母の実家は昔はタバコ栽培を行っていた裕福な農家だったらしく、祖母の代には凋落しかけていたらしいのですが、祖父はそこに跡取り婿として婿入りしたらしいです。しかし、婿の立場が息苦しかったのか、続けて三人できた子供が皆女の子で跡取りが生まれないこともあってか、ある年祖父母は祖母の実家から籍を抜いて一家で東京に出てきたようです。

 その後、祖父は幸い東京都に職を得てその後男の子も生まれました。この写真は東京に来て関東大震災にあいながらも、東京で生活基盤を築いた時代に撮られたものでしょう。一方、祖母の実家の父、つまりぼくの曾祖父は東京に出て行った娘を気遣ってか、ある年の暮れ娘一家に正月に旨いものを食べさせてやろうと田舎でとれた農産物をリヤカーに積んで早朝まだ暗いうちに茨木の家をでたのですが、曾祖父が東京に着くことはありませんでした。

 東京へ向かう途中で心臓麻痺かなにかに襲われたのか竹藪の中で亡くなっているのが発見されたということでした。これも母から聞かされた話で、母の過去帳にはそういうことで曾祖父の命日は大晦日になっています。一枚の写真は色々なことを語ってくれます。

 

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2018年11月11日

The River Story

The River Story


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 すみだ川

 隅田川の水はいよいよ濁りいよいよ悪臭をさえ放つようになってしまったので、その後わたくしは一度も河船には乗らないようになったが、思い返すとこの河水も明治大正の頃には奇麗であった。

  その頃、両国の川下には葭簀張(よしずばり)の水練場四、五軒も並んでいて、夕方近くには柳橋あたりの芸者が泳ぎに来たくらいで、かなり賑かなものであった。思い返すと四、五十年もむかしの事で、わたくしもこの辺の水練場で始めて泳ぎを教えられたのであった。

世間ではまだ鎌倉あたりへ別荘を建てて子弟の遊場をつくるような風習がなかった。尋常中学へ這入って一、二年過ぎた頃かと思う。季節が少し寒くなりかかると、泳げないから浅草橋あたりまで行って釣舟屋の舟を借り、両国から向嶋、永代から品川の砲台あたりまで漕ぎ廻ったが、やがて二、三年過るとその興味も追々他に変じて、一ツ舟に乗り合せた学校友達とも遠ざかり、中には病死したものもあるが、月日と共にその名さえ忘れてしまって、思出すことさえできないのがある。…

 (永井荷風「荷風随筆集(上)・向島」岩波文庫より)



 最近台風や集中豪雨などで河川の氾濫が頻発しているのでハザードマップ等への関心が深まり、それとともに河川が自分たちの生活と深くかかわっていることを再認識する必要があるという感を強めた。

 現在ぼくが住んでいるところは荒川隅田川の北側にありハザードマップでみると、荒川が決壊した場合はここも最大2mまで冠水する可能性があるようだ。ぼくが子どもの頃育った千住は隅田川と荒川の二つの一級河川に囲まれた胃袋のような形をしたいわば中洲のような所だった。

 子供の頃自転車を買ってもらった時約束させられたのが自転車に乗って遊びに行っても、二つの川を超えないこと。北に行けば荒川に西新井橋がかかっており、そして南に行けば隅田川には千住大橋が掛かっているのでその間がぼくの遊びの空間というわけだ。

 今は荒川と言っているけど子供の頃は荒川放水路といっていた。というのも荒川(あらかわ)という名前が示す通り荒川はしばしば洪水をおこす暴れ川でその流れも頻繁に変わっていたようだ。この川には江戸時代から手こずりいろいろな手が打たれてきたが、大正から昭和にわたる大工事で赤羽の岩淵から東京湾に至る一大放水路を建設することで穏やかな川となった。

 子供の頃の記憶では荒川は夏になると川の真ん中にやぐらが組まれて、それが水泳のための休憩場所や飛び込み台にも使われるなど夏の風物詩になっていた覚えがあるが、隅田川はその頃にはもう墨汁のような黒い川で泳ぐなどもってのほかの川になっていたと思う。父と写っている写真の後ろに流れている川が隅田川でそのほとりに「お化け煙突」といわれた千住の火力発電所の煙突が見える。

 それでも隅田川はぼくにとっては親しい川であることに変わりはない。今思うとひやひやものだが、子供の頃には隅田川のコンクリート製の高い堤防の上を駆け回っていたし、隅田川に掛かる京成電車の鉄橋を友達と歩いて渡ったりもした。また夏になると船をしたてて千住大橋の袂から隅田川を下って、東雲(しののめ)や豊洲の方にハゼ釣りに行ったりした。(二枚目の写真)

 また中学校は隅田川のほとりの両国だったため、隅田川や両国橋などの想い出も多い。永井荷風の「すみだ川」はいつごろ書かれたのかは詳しくは定かではないが随分昔のことだと思うけれど、それでもそこにはもう汚れた川という風に書かれている。以前散策したときには、そのすみだ川の在り様と荷風のちょっと隠微な雰囲気が今でも向島あたりには漂っている感じがした。


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 *ここ数年、日本橋の下から出ている東京湾ミニクルーズや浅草から浜離宮までの定期船などで隅田川を何度か航行したことがありますが、昔とは様変わりに水がきれいになっていて驚きました。傷ついた自然も努力して改善すればある程度回復するものだなぁ、と感慨深かったことを覚えています。
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2018年10月23日

お稽古場

お稽古場

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 先日、亡くなった母の関連の手続きで以前住んでいた千住に用があって杖を突きながら行った。兄と待ち合わせをしていたのだが、時間よりちょっと早く着いたので待ち合わせのその建物の裏手にある懐かしい場所を覗いてみようと足を向けた。

 恐らくもうかれこれ60年近く来てはいないし、周りの街並みはすっかりと変わってしまったのだけれど、方向音痴のぼくなのに、その時は様変わりしていた細い路地の入口を不思議と見逃すことが無かった。きっともう変わってしまって分からないだろうと思っていた矢先、そのお稽古場は昔よりずっと小奇麗になってはいたけれど、ちゃんとそこにあった。


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 そこはぼくが子どもの頃週三回お稽古に通っていた日本舞踊の坂東流のお師匠さんの自宅兼お稽古場だ。お稽古場の看板にはぼくが教わったお師匠さんの坂東勝浜さんの名も残っている。今のお師匠さんはその娘さんで、その旦那になる人を引き合わせるきっかけを作ったのはたしか母だった。

 その場所を前にして急に色々なことが想い出された。床下に響をよくするために瓶が活けてあると教えられていた舞台をトンと踏んだ時のあの小気味良い音。舞台の前に座り踊りと同時に三味線のお稽古もつけていたお師匠さんの姿。そして当時、お稽古から家に帰る途中にお寺があって冬の日の夕暮れ時などその墓地のわきを通るのが小学生だったぼくは怖くていつも目をつぶって急ぎ足で抜けていたのも思い出した。

 学校が終わってからお稽古に行くのだけれど、時にはみんなで遊んでいた草野球を途中でぼくだけ切り上げてお稽古に行かなければならない時もあって、「これから踊りのお稽古だってさぁ」などとからかわれることもあった。いじめられることは無かったけど、ぼくとしては、そりゃあみんなと野球をしている方が楽しいわけで何年かたって結局辞めてしまった。

 ずっと後の大人になってから、あのまま続けていればよかったなぁとは思うけれど、まるで無駄だったかというとそうでもなくて、三味線や端唄、小唄などの邦楽の調べが今でも耳の底に残っているし、もう踊れないけど他人の踊りのうまい下手くらいは今でもわかる。時折気づくのだけれど、何よりも幼い心に刻み込まれた「和」の空気が今の自分の美意識の土台の一つになっているような気がする。そういう意味でもこの出会いに感謝。

 時間があれば本来お稽古場に寄って挨拶するのだけれど、今は時間がないので改めてこんど手土産をもって挨拶に来ようと思った。当時女学生だった今のお師匠さんはぼくのことをもう覚えていないかもしれないけど…。



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 *日本舞踊の曲は小唄端唄(はうた)もしくは長唄が多いのですが(他にも新内、清本そして常磐津などがあります)、そのほとんどは男女の関係の細かい機微をうたったものが多く、小学生には意味など分からないので呪文のように憶えていましたが、中にはぼくも最初に習った「桃太郎」などの分かりやすい題材のものもありますが、ごく少ないです。

例えば、ぼくも習ったことがある端唄の「わがもの」の歌詞は、

 [わがもの]
 わがものと 思えば 軽き傘の雪
 恋の重荷を 肩にかけ
 芋狩り行けば 冬の夜の
 川風寒く 千鳥鳴く
 待つ身に辛き 置炬燵
 実にやるせが ないわいな
  →芋狩り=妹許(いもがり)…妻や愛しい人の居るところ

 当時、お稽古場では細かい所作の処はお師匠さんが口ずさみながら指導しますが、通しで踊る時などにはその曲のSPレコードをかけて踊ります。SPレコードは最大でも5分位なので、その長さで収まる端唄、小唄はそういう意味でも適していたと思います。

 日本舞踊も上級になってくると段物(だんもの)と言って長編の常磐津(ときわづ)や長唄が入ってきます。長唄などは長いものだと30分近いものもあり、SPレコードが複数枚必要になります。歌舞伎の踊りなども小唄や清本などの世界なので、聞いていてどこか懐かしい感じがします。

 今はLPや色々な音楽プレーヤーがあるのでお稽古場ではどうしているんでしょうか。今度いったら聞いてみたい気がします。


 **ぼくも良く分からないんですが、分かりにくい日本舞踊の音楽の背景をそれが演じられた場所で、勝手に分類して自分なりに整理してみるとこんな感じになるのかなと。

 ①劇場系、②お座敷系、③門づけ系

 常磐津義太夫清本などは浄瑠璃の一派で芝居小屋等で演じられる①の劇場系かなと、また踊りはないですが、寄席などでも演じられた俗曲である都都逸(どどいつ)なども劇場系かもしれません。

 それに対し端唄小唄は芸者さんなどがお座敷で歌い踊るもので②のお座敷系かな。お座敷で30分もやられたらたまらないので短いのかもしれないです。

 また新内(しんない)は新内流しという言葉があるように「え~、お二階さんへ…」などと家の門の前に立ち演奏する流し的なもので③の門づけ系、但しこれも元は浄瑠璃の一派だったようです。いずれにしても子供にはわかりにくい世界です。



MutterTanz.jpgありし日の母の踊り




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2018年05月10日

不器用でタフな人達

不器用でタフな人達


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 ■ 思い出リミックス1

 家々の裏口におかれていた
 黒いゴミ箱はいつ姿を消したのか
 東京ではゴミはもう大地に帰れずに
 煙となって昇天する
 泣きながら捨てたものも
 怒りのあまり捨てたものも
 取り返すすべはない
 だが心に溜まったゴミは
 澱となって沈殿している
 透き通る思い出の上澄みの下に
 今も

   谷川俊太郎東京バラード、それから」幻戯書房



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 親父は下町の千住でずっと菓子屋の町工場をやっていた。もとは菓子屋で職人の丁稚奉公から始めて所帯をもってから独立した。だからぼくの子供の頃の遊び場といえば近所の原っぱか工場の中というのが普通の暮らしだった。ぼくが物心ついた頃には従業員も何人もいて彼らは住み込みと通いの人に分かれていた。

 親父は「ダンナさん」と呼ばれて、お袋は「おカミさん」と呼ばれていたけれど、親父は根っからの職人だから工場に入りきりだし、お袋は工場で手仕事をすると同時に数字には疎かった親父に代わって会社の資金繰りや毎月の従業員の給料などの面倒はもっぱらお袋が頭を痛めていた。

 そういう風にお袋もたいてい工場に入っていたから、家には女工さん兼お手伝いさん(当時は女中さんと言っていたけど)が居て、お袋が忙しい時などはぼくの遠足の付き添いは彼女が代わりに行くことも多く、小学校の遠足等の写真にはお袋が写っていないで女中さんが写っていることもあった。

 ぼくが高校を出る頃までは家に住み込みの職人や女中さんが居たので、いわば小さな家での集団生活みたいな感じがあった。住み込みの職人は地方から集団就職で来たり、親父の田舎関係から来たり様々だったけれどみんな若かったから色々なトラブルも多かった。通いの渡り職人みたいな目上の人たちとの折り合いが悪かったりして大喧嘩になったこともあった。

 昔は休みと言えば月に二回くらいの日曜休みがあるくらいで、ずっと工場の中で顔を突き合わせているからストレスもあったのだろう。みんな朴訥でストレートだから人間関係には親父もお袋もいつも気をつかっていた。特に住み込みの職人(「若い衆」といっていた)は中学卒業後からずっと同じ一つ屋根の下で暮らしているので、一緒に住んでいるぼくら自分の子供達との関係とか、思春期の彼らの扱いとか色々なことにも何くれとなく面倒をみなければならなかったと思う。

 親父もそうだけれど他のみんなもいわゆる職人だから、人付き合いなんかはどちらかというと不器用な感じだけれど反面、昭和という激動の時代を生き抜く、へこたれないタフさも持っていたような気がする。みんなその後菓子屋で独立したり、転業したりしながらも所帯を持ち、子供を育て立派に生きてきた。親父が高齢で菓子屋をやめた後も正月などには挨拶に来る律義さも持っていた。ぼくの目の底には今もそういう不器用でタフな人達の姿がはっきりと刻み込まれている。


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 *平成も今年限りで終わることが決まり、昭和はますます遠くなりその記憶も当然段々と希薄なものになってゆくのでしょうね。これからはもっと複雑で先の見えない世界に突入してゆくと思うんですが、そんな時だからこそ子供の頃に見聞きした人たちのタフさがまぶしく見えます。彼らの姿はぼくにとって「透き通る思い出の上澄みの下に」沈殿している澱などではなく、勇気づけられる力強い想い出そのものです。


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2017年06月10日

荒川土手

荒川土手


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 以前撮った写真を見ていたら、そう言えばここのところ昔住んでいた千住あたりに暫く行ってないなと思った。この写真は数年前の夏の終わり、まだ母が定期的にリハビリ病院に長期入院していた頃撮ったものだ。その日もいつものように病院に行ったのだけれど、母のリハビリが始まったばかりでまだ時間がかかるということだったので病院の近くの荒川土手まで行って時間をつぶすことにした。

 土手の上は晩夏とはいえ日差しの力はまだ十分夏の厳しさを残している光にあふれていた。河原のグラウンドでは少年サッカークラブの練習だろうか、少年たちの甲高い声が土手の上まで響いてくる。少年たちの父兄と思われるギャラリーが数名。むせ返るような草いきれとじりじりと照りつける太陽。こんな感覚を子供の頃、何度も何度もこの土手で味わったことを想い出した。




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 母の入院していた病院のある柳原から近い土手のこの辺りは、小津安二郎の「東京物語」や青春ドラマの「金八先生」にも登場するのだけども、ぼくが子供の頃遊んでいたのはここからもう少し上流に行った新橋と西新井橋の間あたりだったのだが、友達と自転車で家から荒川土手まで競争して最後に土手をこぎあがり、自転車を草むらの上に倒しまま大の字になると眩しい太陽が気持ちよかった。

 暫くして起き上がるとすぐ目の前にはお化け煙突があった。土手の上から見下ろす千住の町並みはゴチャゴチャとして埃っぽく、でもそこから聞こえてくる街の喧騒はまるでエネルギーの塊のようだった。不思議なことにこの頃の記憶はなぜかモノクロの感じがする。この日の空のように抜けるような青い空の記憶ではない。おそらくその頃の空はそんなに青くなかったのかもしれない。お化け煙突からも毎日黒い煙が出ていたし。

 一瞬、小津安二郎が「東京物語」をカラーで撮っていたらどうなっていたのかなと考えた。小津監督のことだから画面のどこかに赤い色を潜ませたとは思うのだけど、それを引き立てるようには当時の空は青くは無かったのだろうな。この日の青空なら小津監督の好きなAgfaの色味が活かせたかもしれない。荒川土手はぼくのふるさと東京の原点みたいなものだ。今度はゆっくりと向き合いに行きたい。



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posted by gillman at 15:51| Comment(2) | 下町の時間 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする