2025年08月12日

胡蝶の夢

胡蝶の夢

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 この暑さと足の不調のせいでもう何か月も公園散歩に行けていないので、最近の様子はわからないのだけれど、以前にも書いたかもしれないが散歩をしていて公園で昔のように昆虫を見かけなくなった感じがした。今の時期なら蝉はいるだろうが、昔のようにいろいろな蝶や甲虫類やトンボ、そう、昔はチョウトンボの大群を見かけたこともあるが…、昆虫全般を見かけることが少なくなった。

 これはぼくの勝手な憶測なのだけれど、その原因は公園の主な道が舗装されたこと、それに年に数回行われる下草の徹底的な除草のような気がする。それで公園の見栄えは良くなるけど、公園に棲む虫たちにとっての環境としてはどうなんだろうか。

 ぼくは特に蝶が好きなのでそれが見られなくなったのは寂しい。散歩の時に蝶を見かけるとどこにゆくのだろうとそれにずっとついて行くのが楽しみだった。花にとまった蝶の表情をみると意外と可愛い顔をしている。彼女は今何を考えているのだろう、なんて思わず感情移入をしてしまったり…。

 ぼくは「胡蝶の夢」という話が好きだ。紀元前三百年くらいの宋の時代の思想家である荘子(荘周)にまつわる話である。ある日荘子が自分が蝶になってひらひらと空を舞っている夢を見て、ふと目が覚めてみると自分が蝶になった夢を見たのか、それとも今の自分が実は蝶が見ている夢なのではないか、といった説話なのだ。最近確かにそんな風に思える時がぼくにもある。

 ぼくは明け方に夢を見るタイプだからか目が覚めた直後には見た夢の細部にわたるまでよく覚えている。それが起きて日常の生活が動き出すにつれて少しづつ薄れてゆき最後には夢を見たことさえ忘れてしまうのかもしれない。しかし目が覚めた直後にその夢の中身を反芻したりカミさんに話して聞かせたりすると記憶に残るようだ。

 そうして少しづつ自分の夢を分析すると、同じような夢を見たり、前の夢の続きを見たりしていることが多いし、夢の中で議論したり(議論の相手も自分なのだけれど…)、夢の中の会議でアイデアだしをしたりもしている。ただベースにはこれは夢の中なんだという薄っすらとした認識はあるようだ。でも同じような夢や夢の続きを見るようになるとその認識も怪しくなってくる。

 ぼくの夢には何度も同じような場所や街並みがでてきて、それは自分がかつて住んだ街のようでもあるがその構造や外観は現実とは異なっている。それが昼間覚醒しているときでも詳細にイメージできるようになって気味が悪くなってきた。夜寝るとそこに帰るんだという意識は既にもう、ちょっと危ないような…。

 ある時ボーっとテレビを観ていて画面に映っている人物をどこかで見た覚えがあるような…。でも中々思い出せない。何だか落ち着かない気分でいると、ふと思い出したのだがそれは夢の中で見た人物の顔なのだ。その夢を見た状況はよくは覚えていないが確かに夢の中に出てきた人物だ。ぞっとした。

 そのうち、それが夢の中の出来事の記憶なのか、現実の中の出来事の記憶なのか判別がつかなくなってくるのではという恐怖心が湧いてきた。今は目が覚めてもあまり夢のことを思い出さないようにしている。このままいくと胡蝶の夢になってしまいそうで…。



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 *上の二枚の写真はちょうど20年前に当時のデジカメで撮った写真です。当時はまだ500万画素が精いっぱいで今だとスマホのカメラの方が多いくらいですが、でもレンズはやっぱりカメラの方が優れているような気がします。



【gillman*s parkの最新記事】
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2025年08月05日

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その48~ 猫が寄り添う

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その48~ 猫が寄り添う

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 老いるってことは病(やまい)るってことと同じ。
 だけど、それは闘うんではなくて、
 猫とつきあうように、
 老いに静かに寄り添ってやるもんだと思うんだよね。
 頑張らなくてもいい。
 寄り添っていけば、
 力まずに、それも自分だという風に生きていくと、
 すっと楽になる。
  緒形拳 (雑誌「猫びより」)

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 緒形拳という役者が大好きだった。インタビューなどで見せる彼はシャイで口数も少なく、でも強い存在感は持っていた。その彼が一旦役者として登場すると、その人物の来し方から今の命の息吹まで感じられるような凄みをもって伝わってくる。そういう稀有な役者だと思っていた。
 
 彼は猫好きでも有名で冒頭のコメントは彼が病を得たのちに雑誌のインタビューに答えたものだ。ある意味では老境の極致と言った風格のコメントだけれど、正直言ってぼくはまだそういう境地にはなれていない。まだまだやりたいこともあるし、力んでもいるし、頑張ってもいるつもりだけれど…。

 とは言え身体は正直だから何かあれば歳相応の反応を示すのだ。6月の下旬に風邪をこじらせて熱と咳に悩まされ医者で薬を貰って何とかしのいだ。しのいだと言ってもリハビリやトレーニングの生活に戻れるようになるまでには結局二週間くらいかかってしまった。

 ところが7月下旬になってもなかなか咳が止まらない、夕方になると熱が出るという具合でまた医者に逆戻り。今度はレントゲンとCTを撮ったら軽い肺炎を起こしているとのこと。医者が言うには、自力で治して治りかけているが症状が治まるにはもう少し時間がかかりそうだと。気になるのは以前にも何回か肺炎をやった跡があるらしい。まぁ、それは良しとしても何とか早くこの状態から抜け出したいと思った。

 昨日今日はその肺炎の最後のあがきか、とにかく一日中咳が止まらなくて寝ても熟睡できないので昼近くまでベッドで寝ていると、朝ご飯を終えたハルが寝室に来てベッドに上がってきてぼくの様子をじっと見ている。ぼくが大きな声で咳をしてもたじろぐ様子もなく見ている。そのうち、やれやれという感じで座り込んで…、しばらくしてハルをみるとすやすやと本格的に寝入っている。

 心配してるんだか、していないんだか。でもこの緩さが猫の最大の魅力なのだ。そのハルの頭を撫ぜてやると心もちぼくの気持ちが和らぐ。何のことはない、猫に寄り添うのではなくて、猫に寄り添われている。もちろん、苦しい中一番寄り添ってくれたのは言うまでもなくカミさんだが…。いつになったらぼくも緒形拳のような心境になれるのやら。もう少し、あがくか、それも悪くはないな。


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 *緒形さんは60台初めから慢性肝炎を患っていました。しかし役者を続けることを選び、仕事に支障をきたしたくないとの理由で入院治療を拒否していたようです。それが肝硬変から肝ガンと重くなっても、在宅療法を選択し、俳優としての生活を続けた。だがある日腹部に痛みを訴え、栃木県の病院に搬送されると肝臓破裂が確認され、朝に緊急手術を受け、容体は一時持ち直したが、同日夜に急変し亡くなりました。

 思うに、冒頭のコメントは緒形氏の理想のコメントで彼自身は最後まで誰よりも頑張ってしまった人なのではないかと。それもまた自分で、自分の意志で選んだ道なのだと了解していたのも彼で、それも一つの立派な生き方だと…思います。


and also...
小さくなる背中
猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その22~



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2025年07月23日

夏 変化の予感

夏 変化の予感

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 梅雨が明けた。と言っても、大体が梅雨らしからぬ梅雨だった。しとしとと降るイメージの梅雨はもうぼくらの頭の中だけにしか存在しないのかもしれない。固め打ちのように豪雨がやってきて、そうでない日は既に真夏の様相を呈していた。

 今日は昼前に少し離れたところにある大型スーパーに車で買い物に行った。昼前なのにもう30度を超している。こういう時はスーパーの生鮮食品売り場は涼しくてまるで天国のようだが、冷やされた空気の反動は最上階の駐車場にある室外機からサハラ砂漠の熱風のように吐き出されてくる。

 車を停めてその熱波から逃げるように売り場に向かおうとして、ちらっと室外機の方を見たらハトが一羽身じろぎもせず室外機の上にとまっている。駐車場にはハトが入れないように網が貼ってあるのだけれど、どこをどう迷い込んだのかこの暑い空間のしかも室外機の上に茫然自失の体で網の向こうの空を見つめている。今のぼくらみたいだな、という台詞が一瞬頭を過った。

 それにしても、このうだるような暑さはどうだ。春と秋が消滅しかかって今まで細やかな季節の移ろいの一つ一つに心躍らせていたぼくらの感性はどこへ向かうのだろう。世界の熱波が極東の日本にも来たように、世界を覆いつくしている不可解で不穏な空気が今日本にも忍び寄っている予感が胸をよぎる。

 ■梅雨明けぬ 猫が先ず木に 駆け上る(相生垣瓜人)


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2025年07月09日

あの頃のチャンドラー

あの頃のチャンドラー

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 アメリカの小説というのは若いころ人並みにスタインベックとかヘミングウェイとかは読んだけれどそれ程興味があったわけではない。でも大学生の頃、植草甚一氏のエッセイでだと思うがアメリカの探偵小説なんかの作家の名前を知って、あくまで名前だけでかっこいいなぁと思った作家が三人いた。

 一人は探偵フィリップ・マーローのシリーズで売れていたレイモンド・チャンドラー、二人目がパトリシア・ハイスミスで三人目がミッキー・スピレインなのだけれど、かと言ってその作品を読みまくったかというと全そういうことはなくて、音の響きがかっこいい名前だなぁと思っていただけなのだ。

 そんな中でレイモンド・チャンドラーの探偵小説フィリップ・マーローシリーズだけは何作か立て続けに読んだ。けれど、それで当時ハヤカワ・ミステリの沼にはまるようなことはなかった。しかし最近文字の大きさが変えられるKindleの電子書籍で楽に本が読めるようになってチャンドラーの「大いなる眠り」「ロンググッドバイ」や「ハイウインドウ」そして「プレイバック」などを読み直してみた。

 今度のは翻訳が全部村上春樹氏のもので、以前読んだ時とは随分印象が違う。もちろん読む側のこっちも変わったからだろうけど、細部の表現の印象がまるでちがう。訳者あとがきを読むと以前の訳はプロットに関係ないような部分のチャンドラー独特の回りくどいような表現は結構あっさりと訳されていたこともあるらしい。

 村上氏は翻訳モノは50年に一度くらいで翻訳しなおされる方が良いと言っているが確かにそうかもしれない。書かれてから長い時間がたってみるとチャンドラーの探偵小説はプロットの展開よりも探偵マーローの信条や彼の目に世界がどう映っているかという描写に魅力があるという感じがする。今でもチャンドラーの作品が読まれるとしたらその点にあると思う。

 探偵マーローシリーズは映画でも楽しませてもらった。原作のある小説の映画化でいつも言われるのは、「読んでから観る」か「観てから読む」か論争なのだけれど、ぼくは断然「読んでから観る」派。活字は無限のイメージを与えてくれるが、映像を先に観てしまうと活字で読んだときにイメージに枠がはめられてしまうような気がして…。まぁ、好みの問題だけれど。

 探偵マーローシリーズは主に「三つ数えろ」(THE BIG SLEEP/1946)と「ロング・グッドバイ」(THE LONG GOODBYE/1973)それに「大いなる眠り」(THE BIG SLEEP/1977)の三本が映画化され、探偵マーロー役をそれぞれハンフリー・ボガートロバート・ミッチャムそしてエリオット・グールドが演じているけど、ぼくとしてはロバート・ミッチャムのマーローが原作を読んだ雰囲気に一番近いような気がする。

 ハンフリー・ボガートは小柄すぎるし、エリオット・グールドは大人のクールさが足りないような…。これも先に原作を読んでいるから自分のイメージと比較ができるが、先に映画を観ていたら本を読み始めるなり頭の中でたぶんいきなりロバート・ミッチャムなんかのマーローが動きだしてしまうと思う。

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 というわけで原作を先にと言ったが、実は二人目の作家パトリシア・ハイスミスの作品は原作は読んでいないのですべて映画の世界なのだけれど、それはそれでハイスミスの作品を各映画監督がどう料理するかという別の楽しみが待っている。ハイスミス原作の最初のヒット映画はアルレッド・ヒッチコック監督の「見知らぬ乗客(STRANGER ON THE TRAIN/1951)」でぼくの大好きなサスペンス作品だ。

 ハイスミス原作の作品で一番日本人になじみ深いのがアラン・ドロンの出世作ともなったルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい(PLEIN SOLEIL/1960)」だろう。一見クールな好青年に見える若者リプリーの闇の世界を描いて秀逸な映画だが、この主人公であるトム・リプリーを主役にした作品をハイスミスは何作か書いている。

 そのリプリーが晩年、贋作づくりの画商として登場するのが「アメリカの友人」(DER AMERIKANISCHE FREUND/1977)で監督はヴィム・ベンダース。画面にはパリや北ドイツの暗く陰鬱とした風景が広がっている。あの「太陽がいっぱい」の日の光にあふれた南仏の世界とは対照的だ。久々のデニス・ホッパーとドイツの名優ブルーノ・ガンツがガチンコの演技を繰り広げている。本作のアメリカでのタイトルはRipley's Game(リプリーのゲーム)となっている。

 三人目のミッキー・スピレインの作品は昔一冊だけ「殺戮へのバイパス (ハヤカワ・ミステリ 1001)」を読んだことがある。翻訳は田中小実昌氏で当時何度か家の近くを走る路線バスの中で田中氏を見かけることがあって、その彼がスピレインの作を翻訳していることを知り読んだような気がするが作品自体は印象が薄かった。そのハヤカワ・ミステリの本がまだ捨てずに手元に残っていたのでもう一度読んでみようと思ったが、虫眼鏡で見るほど字が小さくて今のぼくにはとても無理。あれからずいぶんと時間が経っていたのだ。


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 *チャンドラーの作品を読んでいると時代の流れが大きく変わっていることを実感します。チャンドラーの作品の世界では男も女もやたら煙草を吸っている。どこもかしこも煙だらけ。それにアメリカは当時からもう車社会だったのだが、作品の中ではパーティーやバーに車で行って車で帰ってくるのが当たり前。探偵の車のダッシュボードにはウイスキーのボトルが入っていたりして…今だったら一発で酒気帯び運転で免停の状況が平気で描かれていますね。

 **禿げ頭に手編みの半円形の帽子で親しまれていた田中小実昌氏は路線バスに乗るのが好きで、移動手段というより乗ってただボーっとしているのが好きだったようです。本人も「バスに乗って」というエッセイ集を出しています。近くの路線バスで見かけたときも一番後ろの席に座って外を見ていました。小説家としても数々の賞を受け実に多才で才能豊かな人でしたね。

 ***パトリシア・ハイスミスの生涯を追ったドキュメンタリー映画「パトリシア・ハイスミスに恋して」は現在Amazon Primeで有料で見ることかできますが、彼女の才能を見出したのがあのトゥルーマン・カポーティーだったことや、彼女の日記や関係者のインタビューなどを通して彼女の実像が浮かび上がってくる興味深い作品でした。


posted by gillman at 13:34| Comment(4) | 新隠居主義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年06月27日

浴衣ざらい

浴衣ざらい

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 坂東玉三郎などの歌舞伎役者もたまに「素踊り」という舞台をすることがある。素踊りというのは舞台衣装や化粧、舞台装置など使用しないで言葉通り普通の和服の素のままで踊る舞台でそれだけに踊る者の力量が表れてしまうらしい。

 いつも今のような梅雨時になると、子供の頃日本舞踊を習っていた頃のことをうっすらと思い出す。まだ小さい頃のことだから消えかかった記憶といえばそうなのだが…。夏が近づくと日本舞踊の稽古場では夏の「浴衣ざらい」の話題で持ちきりになる。

 浴衣ざらいという舞台は素踊りで曲も昔のSPレコード(78回転の12インチレコード盤で通常片面5分くらいの演奏時間)で片面もしくは長くても両面位の長さだし、衣装もその流派の揃いの浴衣でよいから経済的負担も軽くお弟子さんとしても取り組みやすいのだ。

 それに比べて数年に一度行われる「本ざらい」というのは舞台もそれなりの会場で、衣装も本格的なものに化粧、カツラもつけ舞台の背景の書割もちゃんと作るなど大掛かりになってくる。さらに招待客にはお弁当を出し名入り手ぬぐいを配るというしきたりもあったりして大変。(それに多分家元への上納金も必要なのだと思う)

 また舞われる曲も「段物(だんもの)」と呼ばれる劇的要素の強いものが多くSPレコードで数枚にわたる長い時間がかかるものが多い。そうなると経済的負担も多くなるので、その点ではお弟子さんのなかでも花柳界の若いおねえさんや習い始めのお弟子さんでは歯が立たないのだ。

 そこでお師匠さんの目は勢い弟子の中でも、芸歴も長く余裕もありそうな商売人の奥さんなんかに向くのだけれど…。ぼくの記憶では母は二度ほど本ざらいの舞台に立ったことがあるけど、結局は断り切れなかったというのが本音かもしれない。

 それも余裕があるからということではない。母は毎日父の下町の町工場で真っ黒になりながら働いて週に二度ほどこそこそと抜けるように工場をでてお稽古に通っていた。父は工員の手前あまりいい気はしていなかったと思う。そして何年かかけてコツコツと貯金もして本ざらいに備えていたようだ。

 ぼくが日本舞踊を習うようになったのは母が言うには、母のお稽古場について行った時「あたいも習いたい」(「あたい」なんて言ってたかなぁ)と言ったので習わせるようになったといって、その後ぼくがお稽古をさぼりたがると必ずそのことを言われた。

 それはまったく覚えてはいないのだけれど、とにかくお稽古場には男はぼく一人であとは粋筋のおねぇさんやお妾さんらしい人もいてお菓子をくれたり…。それにお師匠さんには女の子が二人いて一人はぼくと歳も近かったのでぼくとしても悪い気はしなかったのかもしれない。

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 お稽古場にはその内母とは別に行くようになった。ぼくは学校が終わってランドセルをウチにおいてから友達と草野球やベイゴマに興じて時間を見らからって抜けてお稽古場へ。一度ほかの子に「いつもどこ行くの?」と聞かれて「お稽古」と言ったら大笑いされたことがあって、それ以来言わないようにした。当時は学習塾に通う子供なんか殆ど居なかったので…、自分もそうだが子供たちは日が暮れるまで外で遊んでいた。

 照れもあったのか、母と踊りの話をしたことは殆どない。踊り自体が母は普通女踊りだしぼくは男踊りだからふりも違う。一度母が男踊りの曲を習っているとき、お稽古場の舞台で足運びに苦労していたのを思い出す。男踊りではつま先は外向きなのだけれど元来内またの母には大変そうだった。女踊りなら内またそのままでいいのだが…。

 浴衣ざらいにはぼくも出してもらえた。当日舞台ではお師匠さんは後見として舞台の袖にいるのだけれど、ぼくのように子供が踊るときはすぐ手を貸せるように舞台中央の背景壁のところに座って待機している。ぼくが一度手を忘れかけてお師匠さんの方を振り向いたとき鬼みたいな怖い顔をしていたような記憶が頭をかすめる。

 後年母が高齢になって、昔は浴衣ざらいが終わるとお稽古場もひと段落して、その間に母はぼくを連れて何箇所かの老人ホームに慰問に行って仕上げた踊りを披露したと母は言っていた。ぼくにはその記憶は全くないのだけれど「お前が踊るとみんな喜んでいたんだよ」と母は言っていた。

 ぼくの幼いころの記憶の底に残っている音は、今好きなジャズでもクラシックでもなく三味線の音なのだけれど、それは今でも幸せなことだと思っている。でも当時は反発心の方が強くその反動で中学では剣道部に入った。母はもともとどうしても女の子が欲しくて、でもうちは男二人の兄弟なので物足りなかったのか。後年ぼくが中学生になった頃だとおもうが、母は田舎の遠縁から女の子を養子に貰おうとしたことがある、それは結局うまくいかなかったのだけれど…。

 今それなりの歳になって、アジサイの咲くころになると、幼いぼくの脳裏にはなかったはずの、そぼ降る雨の中を母に手を引かれて老人ホームに慰問に行く自分の姿の幻影が頭をよぎるようになった。いまは確かにそういうこともあったのかもしれないと思っている。もう七十年くらい昔の話だが…。


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*ちょっと長いけど、くどくどと昔の話を書いたのは、一つにはともすれば根無し草のように見える東京人にも故郷としての下町東京の暮らしがあったことも知ってもらいたいなぁという気持ちもありました。

 実は今日が誕生日なのですが、数日来の風邪で今も咳が止まらずのたうち回る誕生日ですが、産んでくれた母にはもっと大変な一日だったと思うと感謝です。



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2025年06月07日

特別なランチ

特別なランチ

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 今日で結婚50年目。言ってみれば半世紀だけれど経ってしまえばそんな長い感じはしない。もちろんここまでも平穏ではなかったし、というよりは波乱万丈に近いかもしれないが…。昔の猛烈サラリーマンの例に漏れずぼくは仕事で手一杯で殆ど家にいなかったうえに、ぼくの両親と同居ということもあってカミさんには余計苦労を掛けた。また母が高齢になってからはそれに介護も加わって心身ともに疲れていたと思う。

 ぼくはリタイア後は大学院に行ったり、その後一時期大学でも教えていたが最終的には母の認知症などもあって介護に専念するために外での活動は週一回の日本語学校での留学生サポートだけを残して停止することにした。最終的には母は家の近くのケアハウスに入って少し落ち着いた時間が持てるようになった。近くなので頻繁に顔を見に行けたのは有難かったが、98歳で亡くなるまで日々衰えてゆく母の姿を見続けるのは何にもまして辛かった。

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 50年目だからといって何か特別なことをするでもないが、昨日は久しぶりに上野の韻松亭でカミさんとランチした。昔は勤め先が本郷だったので上野のこの料亭は会社の歓送迎会などで何度か使ったことがあるけど、最近は予約が取りにくいこともあって足が遠のいていた。それが先月予約サイトでたまたま空いている日があったので押さえておいてよかった。

 予約の時間は遅いランチタイムと言っていいような時間帯だったが、店の前の床几席にはインバウンドも含めて何人もの人が待っていた。ぼくも以前はよく美術館の帰りなどに寄ってランチしたのだけれど予約なしでランチを待っていたのではないかな。案内された席は和室ではなくテラスの見える板の間の部屋なのだけれどそれ程広くもなく落ち着いて食事できるスペースだった。頼んだのは目にも楽しい懐石料理で、量的にも多すぎず少なすぎず丁度よかった。

 カミさんには会社時代は苦労させっぱなしだったけど、リタイアしてからは少しはカミさん孝行できているのではと思うけれど…。それはぼくだけが思っている自己満足かもしれない。ともあれこれからも一日でも長く一緒に居られればそれに越したことはない。

 金婚の 夫婦茶碗に 福茶注ぐ (力石郷水)


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posted by gillman at 14:09| Comment(24) | 新隠居主義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年05月29日

定位置

定位置

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 ぼくは元々いわゆるお片付けが得意な方ではない。学生時代も自分の部屋の片づけは期末試験や中間試験の終わった日にやれやれということでちょっと念入りに部屋を片付けて、それからはまた次の試験まで少しづつ部屋が乱雑になってゆくというサイクルの繰り返しだったような気がする。部屋のお片付けはいわば試験明けの気分転換みたいなものだったのだ。

 でもインテリア関係は好きでそういう雑誌もよく見はしたけれど、自分の部屋をどうするかはきっとそれ以前の話でまずは散らかさないことが大事だった…、と今は思う。そういう自分に転機が訪れたのは二十歳そこそこでドイツで暮らすようになったことだと思うのだ。

 聴くところによると今のドイツの若い人はどうもそうでもないらしいが、半世紀くらい前のドイツ人と言えば潔癖症な位いきれい好き整理整頓好きで、下宿のオーナーのフィッシャーおばさんは毎週金曜日には同じ敷地にあった自宅を丁寧に掃除している姿をよく見かけたのだが、それは当時のぼくから見れば日本人の年末の大掃除くらいに見えた。

 掃除の仕方もそれぞれ思い入れがあるみたいで、掃除道具も豊富だった。ぼくがドイツで最初に驚いたのは住民登録をするために市役所に行った時のことだ。接客カウンターの向こうには壁一面に同じタイプのファイルが背表紙で色分けされて整然と並んでおり、まさに壮観だった。その頃の日本の市役所といえば(一部では今でもそんな感じだが…)担当者の机の上にうず高く書類が積まれてどう見ても整理整頓が行き届いてるとは思えなかった。

 当時下宿のおばさんはぼくの部屋の鍵を持っていて時々部屋の掃除もしてくれたのだけど、部屋が整理整頓していないと必ず何か言われる。ぼくがたまたま部屋にいる時に掃除に来ることもあるのだけれど、そういう時に例えば飲み終わったコーヒーカップがテーブルに置いてあったりすると「これは本来どこに在るべきモノなの?」と必ず聞かれる。おばさんのこだわりはモノにはそれぞれ定位置というものがあって使い終わったら即そこに戻すべきなのだ。

 何かを買う時も必ず「それをまずどこに置くか決めてから買いなさい」と言われた。おばさんから見れば当時のぼくはまだ子供だったから、これは徹底的に躾けねばと思ったのか、まぁその思惑通りきっちりと躾けられてしまった感じだ。

 今でも部屋の中にモノが中途半端に置かれていると何とも落ち着かない。そのモノを手にして定位置を求めてうろうろするということも…。夜寝る前にも部屋を一当たり眺めまわして「迷子」はいないか確認する。長い間一緒に住んでいるからかカミさんもそうなってしまった。なんだかなぁ、いいのか、悪いのか…。



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2025年04月19日

これがさいごの…

これがさいごの…

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 パソコンを新しくした。車や大型家電製品など、買い替えるのにちょっと決心がいるようなものを買うとき「そろそろ、これがさいごの〇〇になるかもな…」というフレーズが頭をよぎるようになったのは、考えてみたら60歳過ぎくらいからだろうか。つまり頭の中でこれから買おうとするものと、自分の寿命を天秤にかけて「コイツとオレとどちらが先にいくか?」なんて。

 今までのパソコンは結局13年くらい使っていて、どこと言って不満もなかったのだけれど…。それでもどうやらWindows11そしてその後に控えているwindows12にはスペック的についていけないらしい。生涯付き合う最後のパソコンと思っていたヤツに「お先に~」と言われたみたいな気持ち。

 で、今度こそと思ってシステムに詳しい友人に当分もちそうなスペックのものを選んでもらったのだけれど、以前と同じようなことができるレベルまでもってゆくのに一苦労。彼の手を借りて、システムの移行だの、サブスクやアプリのアカウントの変更などは終わったけど、他にも今までのアプリのWin11下での動作確認や慣れ親しんだアプリの設定項目の再設定等などやるべき事が山積み。

 ぼくはパソコンを道具としてみているから、パソコンを使って何かをするのは昔から好きだけど、中をいじったりシステム的に使用環境を設定したりするのは詳しくもないし、特に最近は面倒に感じることも多い。懸命に作業する脇でハルがあくびをしながら「早く終わらせろよ~」と退屈そう。かまってもらえないのが嫌らしい。「もうちょっと…だよ」

 でも、大体だなぁ、お前を里子に引き受ける時もずいぶん考えたんだぞ。ハルとカミさんとオレのどちらが長生きするかって。これが最後の猫だねってカミさんと確認しあって。一応なんかの時に代わりに飼ってくれる目途は立ててあるけど…。

 車もそうだし、冷蔵庫もエアコンも洗濯機も、と考えながら…。なのに最近の家電製品なんかは10年位しかもちませんって堂々と開き直ってる。ぼくのスピーカーなんか50年以上も使っているのに今も現役。昔の製品は偉いなぁ。まぁ、これからはモノを減らしてシンプルな生活にしてゆけということかな。

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2025年03月15日

週末シェフの憂うつ

週末シェフの憂うつ

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 数年前の年末にカミさんが外出先で転倒して腕を骨折してしまい家事が出来なくなってしまった。すぐ目の前に迫っている新年のおせち料理の準備もできなくなって急遽ぼくがカミさんの指示を受けながら作ることになった。

 以来慣れない料理で食事の準備をすることになって試行錯誤していたが、半年くらいで幸いカミさんの腕も何とか料理できるまでに回復したので元に戻しても良かったのだけれど、折角料理するという事に慣れてきたので週末の晩飯だけでも作ろうというようになり、週末シェフの誕生となった。

 メニューはカミさんに教わる他にもテレビの料理番組やグルメ関連のバラエティ番組、はたまたYouTubeや料理アプリのクックパッドやデリッシュキッンなど意外と料理に関する情報が身の回りにはあるものだ。

 手順や段取りがまだ手馴れていないのか初めてのレシピで作るのはちょっと緊張する。一度はレシピ通りやってから自分なりのアレンジをしたいなぁ、とは思うのだけれど、脇で見ているカミさんに「これくらいで良いのよ…」とか「それじゃ、〇〇だわよ…」とか言われるとドキッとする。

 やってみて実感するのだけれど、一日三回の食事、それを毎日料理するという事は大変なことだなぁ。料理と一言でいうけど、そこには家族の好みとか、季節の旬とか、家族のための栄養や成人病への配慮、もちろん食中毒なんかの衛生面も大事だしそれに何と言っても家計との相談事でもある。

 それをカミさんはぼくや同居していた両親のために50年近くもやっていたのだから頭が下がる。ぼくは新しいメニューを作るたびに写真を撮って記録しているのだが、それももう250種類以上になった。それでもたった週二回の晩飯のためにいろいろ悩んでいる。ましてや冷蔵庫にある有り合わせの材料で…なんてまだまだ。週末シェフの悩みはつづく。

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2025年02月24日

Cover Story

Cover Story 蓋の話


DresdenDSC03350.jpgDresdenのマンホールとマンホールのある「君主の行列」の通り
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 普通Cover Story(カバーストーリー)と言えば、雑誌の表紙にまつわる特集記事でその時のcover は表紙のことを指している。Cover Storyにはもう一つ意味があって、辻褄を合わせるための作り話という意味もあるらしい。つまり嘘をcoverするための作り話という事だ。でもここではcoverは「蓋」つまりマンホールの蓋の話というつもりで、もちろん英語にはそんな表現はないが…。要は蓋の話(Cover Story)である。英語にそんな意味はないと言われてしまえば確かに「身も蓋もない」話ではある。

 ぼくがいつ頃からマンホールに、特にマンホールのデザインに興味を持つようになったのかはよく覚えていないが、今住んでいる近くに以前はカラーマンホールのメッカといわれて当時は珍しかったカラーマンホールが多数設置されている場所があることやヨーロッパ、特にドイツで格調高いマンホールに出合えたことがきっかけかもしれない。

 例えば旧東ドイツのDresden (ドレスデン)で出会ったマンホール。ドイツには街の紋章が入った蓋が結構あってぼくはそれが気に入っているのだけれど、それは州立歌劇場のゼンパーから石畳の道を川に向かって下った所にあり、古い紋章が石畳とマッチして渋い雰囲気だ。蓋の刻印を見るとアイゼンハマー社(Eisenhammer Dresden)の製品であることがわかるが、この会社はソビエト時代以前から東ドイツで操業していた工場で、1945年に工場は一旦ソビエトによって解体されたけれど、1960年にロシアの技術提供で再建されたらしい。

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kanalfinger-gr.jpg映画「第三の男」より


 その蓋の縁には国際基準の欧州のマンホール規格(1994年から)であるEN124の刻印があり同時にその元となったドイツ工業規格のDINの番号も表示されていることから、その過渡期に製作されたものと推理できる。蓋に刻まれた情報を読み解くのも楽しみの一つだ。足元にあって普段はあまり注目されないマンホールだけど、社会を支える機能もしっかりとはたしている。そのために決められた性能基準も国によって、また時代によっても異なるしデザインも特に東ヨーロッパでは激動した歴史の証人になっている場合もある。「第三の男」や「ソハの地下水道」などの映画にだって登場する。

 以前は旅先などで立ち止まってマンホールの写真を撮っていると変な目で訝し気にみられたけれど、最近はManholer(マンホーラー)なる名前もついて蓋フェチが増えたせいかそういうことは少なくなった。できればこれからも旅先などで素敵なカバーに出合いたいと願っている。
という訳で今まで出会った素敵な蓋の面々をこれからもサイドバーで折に触れてCover Storyとして少しづつ紹介してゆきたい。なんと地味な企画w。


竹ノ塚IMG_7749.JPG竹ノ塚/足立区とベルモント市との友好都市記念マンホール

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*普段はマンホールなど足元の世界には殆どの人が関心もないと思いますが、先般の八潮での大規模な道路陥没のような事態が起きると、ぼくらの足元で今どんなことが起きているか関心を持たざるを得ないと思います。当たり前の世界、当たり前の日常が何に支えられているか、マンホールへの関心を端緒にぼくも考えるようになりました。


and also...


posted by gillman at 14:37| Comment(11) | 新隠居主義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする