2024年10月26日

巡礼みたいに

巡礼みたいに
 
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 長い旅に出るのは実にコロナ以来久しぶりの事だ。今月で手術してから丁度一年になる。旅に行けることを一つの目標にしていたので行けたのは良いけれど、それよりも見切り発車で行ってしまったという方が正しいかもしれない。ステッキをついてドイツの石畳の道を歩き回るのは苦行のように思えたときもある。何だか巡礼みたいだな、と。

 とは言えそれは一つの区切りにもなったことは確かだ。今回訪れた街は殆どが以前にも訪れた処がほとんどなのだけれど二十数年ぶりの街もあれば、中には五十余年ぶりの街もあったりしてその間に変わったもの、変わらなかったものが心の中を去来した。アーヘンの大聖堂のステンドグラスはこんなにも美しかったのかと改めて感動した。若いころ見たときには確かにすごいけれどこんなに感動した覚えはなかった。パリのノートルダムの薔薇窓にもこれほど感動はしなかった。

 逆にマウルブロンのクロスター(修道院)は若いころ訪れてこれこそぼくの心に描いていてたドイツそのものの姿だと感動もし、ずっとそこに居たいと願った場所だったのだけれど、世界遺産に指定されたらしい現在はそういった空気、雰囲気は残ってはいなかった。何だか見てはいけないものを見てしまったような…。自分も観光客として来ていながらそれは矛盾しているけれど、特に21世紀に入って顕著になったオーバーツーリズムというものが、その土地の空気を攪乱し陳腐なものにしてしまっている気はした。

 自分が青春を過ごした静かな街だったハイデルベルクも丁度秋祭りの時期だったとはいえ、町中がまるでディズニーランドのようでどこにも日常の生活臭は残っていなかったのは寂しかった。当時学生の頃は憧れだった目抜き通りの伝統的高級ホテルZum Ritterで昼食をとったけれど、混みあっていてそそくさと急がされて感傷に浸っている間はなかった。恐らくはもう訪れることもないこの街に別れを告げる時、もう少し静かな時期に来ればよかったかな、と。ドイツも大きく変わった気がする。コロナ以前は主に旧東ドイツ地区を旅することが多かったので南部、南西部ドイツは久しぶりなのでよけいに感じたのかもしれない。
 
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2024年09月23日

心の墓標

心の墓標
 
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 今年もお彼岸がやってきた。父も母も9月に亡くなったのでお彼岸や命日には暑い記憶が纏わりついているのだけれど、今年はとりわけ暑い。早いもので今年で母の七回忌になる。七回忌だからと言って特別なことは無いのだけれどその度に改めて故人の事を思い起こすのには大切な節目だと思っている。

 よく人は二度死ぬと言うけれど、一度目は本人が亡くなったとき、そして二度目はその故人を知る人が亡くなるか、その人の中からその故人の記憶が薄れて無くなったときだと言われる。目に見える墓標も目には見えない心の墓標もやがては朽ち果ててゆくのだけれど、そのスピードや故人との距離感の隔たりが現代ではとても速くなっているような気がする。

 昔は仏教でいえば葬儀から一回忌そして十三回忌くらいまでステップを踏んで故人の想い出や記憶が遠ざかってゆく。それはある意味では煩雑な因習に見えるかもしれないけれど、別の意味ではそれは故人の人生に対する一つのレスペクトの形でもあったかもしれない。

 今は高齢化社会という事もあって故人の社会的繋がりも薄くなっているから簡素な家族葬を行い、年忌法要も余り行われないようだ。ぼくの父母の葬儀は親類も集いそれなりに行ったけれど、ぼく自身は戒名も恒久的なお墓も持たずひっそりと逝きたいと思っているが、ここ数年何人かの親類の家族葬に立ち会って感じたのは、自分でもはっきりとは言えないような複雑な思いだった。

 ほんの数人で野辺の送りを済ませて、あとは次の日から何もなかったような日常に戻る。昔のゆっくりとフェードアウトしてゆくような故人の遠ざかり方に対して、今は煙のように消え去ってゆく感じがする。今の慌ただしい時代の流れであり、残ったものへの重荷の軽減でもあるかもしれないが、他方去っていった人間の人生が何となく軽んじられているような気がしないでもない。まぁ、単なるノスタルジーかもしれないが…。
 
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2024年08月17日

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その47~ 注文の多い置物

注文の多い置物
 
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 ■ 平穏の理想形は座る猫の姿の中に存在している。(ジュール・ルナール)
  The ideal of calm exists in a sitting cat. (Jules Reynard)
 
 アメショーのハルがウチに里子に来て六年が経つ。引き取られたときに二歳だったから今年で八歳になるのだけれど、最近は5キロ越えの大猫の部類に…。肥満がちょっと心配だが毎日二度の目薬をさす以外はいたって元気だ。モモレオが居て賑やかだったご飯タイムも今は一人で寂し気だ。

 ハルは今は絡む相手もいないから寝ていることが多い。昼寝をするのにお気に入りの場所は何カ所かあってそこにいることが多いのだけれどいつも眠っているとは限らない。特にお気に入りの出窓に座っている時にはジッと遠くを見つめていることが多い。

 猫が前脚を胸毛の内側へ折り曲げて座るスタイルを「香箱座り」というらしいのだが、その姿は安定していてルナールの言うようにいかにも平穏で静謐な印象を与える。ウチのハルもよくその香箱座りをしている。そんな姿を見るとぼくも癒されて猫時間に包まれてしまう。

 猫時間に包まれてぼくもまったりしている時、ハルがいきなりすっくと立ちあがってぼくの方にやってきてぼくの脚に身体をこすりつける。時には体当たりしてくるような勢いで。そういう時は必ず何かのお願いなのだ。おやつかお水か、トイレの掃除か、まぁ大抵はブラッシングの要求だ。

 レオが何か注文があるときには真っすぐぼくの方にやって来て顔を見つめてニャーと鳴いたのだけれど、ハルは一切鳴かないのでこの体当たり作戦なのだ。アート作品の置物のような静的な姿からいきなり、活発なおねだり猫になるギャップがまた何とも可愛い。
 

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 *ルナールの名著「博物誌」には、紹介されている各動物のところにシンプルな筆書きの挿絵が載っています。上の猫のイラストも猫の項目の処に載っていたものです。とてもシンプルですが猫の特長が鋭く捉えられていてぼくの大好きな挿絵の一つです。実はこの挿絵を描いたのはあのボナールなんですね。それにしても、旨いなぁ。
 

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2024年07月26日

ツーリズムを考える

ツーリズムを考える
 
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 先月のそろそろ梅雨が始まろうという頃、友人がぼくとカミさんを一泊二日の温泉旅行に誘ってくれたので久しぶりに彼の車で山中湖方面にでかけた。初日にはまっすぐホテルに入るには時間が早いので山中湖近くにある「花の都公園」に寄った。花の端境期なのか広々とした花壇には全く花が見えない、二枚目の写真は辛うじてそこだけネモフィラが咲いていた一角を撮ったものだけれどそれ以外は全く花の気配はない。

 よくある「ばえ写真」ってこういうものなんだろうなぁ。それを見る人は勝手にその光景を写真の外側にも広げて想像してしまうのだけれど、もちろんそれは現実とは違ったりして…。ところが最近はややこしいことに例えばその写真で半分くらいのスペースにしか花が咲いていなくても生成AIが画面いっぱいの満開状態に変えてくれる。便利だが使いすぎると現実離れした欺瞞的な世界に浸ることになる。

 公園は広いので園内の他所には咲いている所もあるかと思って入園したが全く咲いていなかった。花は咲いていなかったが最盛期と同じ料金をとられてどうにも腑に落ちなかった。(時期によって無料から600円まで3段階に分かれているが、せめて入り口で今はどこも咲いていないという案内が欲しかった)

 二日目も帰る前に時間があるので忍野八海に寄っていった。30年くらい前はキャンプの道すがら何度か寄ったこともありひなびた良いところだったけれど、今はその原型をとどめない、というかものすごい変わりようだった。いくつかある湧き水の出る池を囲んで土産物屋や食べ物屋が立ち並び一見アメ横にいるような錯覚に陥る。

 目玉となる一番大きな池をよく見るためには土産物屋の中を通らなければ行けないようにしてある。もちろん以前はそんなことはなかった。あちこちで観光客の大きな声が響き渡り、ほとんど日本語を聴くことはできない状態。それでもようやく一枚目のような写真を撮って早々に退散。ぼくやカミさんはちょっと辟易したけれど、初めて来たという友人に同行した彼の倅は「活気があって面白いところですね」という、ぼくには意外な印象。そういう見方もあるのか。

 今、日本中に蔓延しつつある観光地で客に群がり金をむしり取るような(とぼくには見える)商店の光景や逆にSNSでバズった「ばえシーン」に群がる観光客を見ていると、大昔ネス湖の近くの街インバーネスを訪れたときのことを懐かしく思い出す。

 当時からネス湖の怪獣ネッシーは世界的に有名だったので、日本人的に考えるとインバーネスにはネッシークッキーだの、ネッシーまんじゅう(笑)だの、ネッシーキャンデーだの、ネッシーのぬいぐるみだの、色々な土産物を売っているんだろうなぁ、と想像していた。ところがそこで見かけたのは何種類かの絵葉書と小さなキーホルダーだけ。ちょっと拍子抜けしたのを覚えている。街は静かで本当に良いところだった。あの時代が懐かしいなぁ。
 

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 *とは言え、泊まったホテルのお風呂と食事は素晴らしかったので大満足でした。ぼくには観光地を見て回るよりコロナ以前には沖縄でやっていた散歩→昼寝→読書→夜の飲んだくれ、という気ままサイクル旅が向いているような気がします。近場でそういうのんびりできる場所が見つかると良いのですが…。もちろんお手軽な値段でというのが条件ですが。

 ぼくのこういうスタイルがいつ頃から身についたか考えてみたら、まだ若いころ毎年夏場に両親が四万温泉に湯治に行っていたのですが、ぼくも会社で夏休みがとれたら必ずそこに行っていたのでその頃のスタイルがそうだったような気がします。湯治生活は一日三回風呂に入ってその間は昼寝と読書か散歩、夜は温泉街の総菜屋で買ってきた総菜を肴に飲んだくれていました。
 

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2024年06月19日

German Jokes

German Jokes
 
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娘「パパ~。アイスが食べたい」
父「だよね~。パパもそうしたいなぁ。だけどママはビール三杯分のお金しか僕達にもたせてくれなかったんだよ」
 
 今日は夏みたいに熱い。で、ネットからとっておいたドイツのこんなジョークを思い出した。日本人がドイツ人に抱いているイメージからいうと真面目とか堅物だと思うのだけれど、確かにそういう一面はあるけどドイツ人はジョーク好きでもある。

 ぼくは落語が好きなので笑いという事には興味がある。笑いにも色々な種類があって落語はどちらかというと本来「諧謔(かいぎゃく)」つまり気の利いた洒落や冗談。どちらかというとエスプリとかユーモアというものに近いと思う。フランスコントなんかもそういう匂いを持っている。

 ぼくはそこらへんは詳しくないのだけれど、どの国にも笑いの世界はあるが、笑いのツボみたいなのはその国によって微妙に違うようだ。フランスでは気の利いたセクシャルなジョークが多いみたいだけれど、日本にも落語の一分野として艶笑譚(えんしょうたん)とか艶噺(つやばなし)とかいうのがあって、古今亭志ん生なんかの艶噺は実に洒脱で色っぽい。

 テレビでは流せないような噺だから触れる機会は少ないけど、寄席での貴重な音源があってそれを聴くと実に洒脱でくすっと笑ってしまう。いやらしさはない。フランスのもそういうテイストのものが多いけど、ドイツ人は下ネタも嫌いじゃないけどドイツのは意外とストレートな感じがする。

 一方、ドイツなど中央ヨーロッパから東ヨーロッパにおいてはジョークの対象は政治であることが多い。ドイツなどのキャバレーは日本のキャバレーとは違って主に政治を茶化して笑いをとるようなコントをやる場所をキャバレーと称していた。

 コメディアンもそういう劇を作り演じる人をいうのであって、これもぼくら日本人がいうコメディアンとは少し違っている。そんなこともあってウクライナでゼレンスキーが大統領になったとき日本ではコメディアンが大統領になったと大騒ぎだったが、向こうの人たちからしてみればそう意外ではないのかもしれない。

 話はそれてしまったけれど、ドイツ語の勉強にもなると思ってよくドイツのジョークを目にするのだけれど、ぼくの非力な語学力ではどうしてもそのジョークの笑いのツボが分からないことがある。ずっと分からないこともあれば、しばらくたってからあ~そうか、ということもあるけど。

 面白いなと思ったものは訳してみるけど、日本語でも笑えるようにするのはちょっとした意訳や崩しも必要になって中々手ごわいこともある。こういうのはAI翻訳機もまだ苦手なようだ。AIに笑いまでもっていかれてはたまらないけど…。

 [おまけのドイツ・ジョーク]
 ある男が死の床で…
 「聞いてくれ、アーデルハイト、ぼくたちは五人の息子を育てたが、四人は黒髪なのに一人だけ赤毛だ。あの赤毛の息子は誰の子なんだ、最後に打ち明けてくれないか」
 「ええ、いいわ、ハインリヒ。彼はあなたの子よ」

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 *出展
 Deutsch Kostenlos
  ジョークで学ぶドイツ語 (押野洋著/三修社)

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2024年06月15日

父の金メダル

父の金メダル
 
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 もうすぐ父の日だけど、想い起してみても父の日を祝った記憶はあまりない。小さな時から母の日には何かプレゼントしたりしていたけれど父の日となると、昔はもしかしたらその日が父の日であるという事もしらないでいたかもしれない。父の晩年、父が完全に仕事を辞めてからは毎年カミさんが洋服などをプレゼントしていたので、ああ今日は父の日なのかと思い出していたくらいだ。

 父の事は小さな頃は「とうちゃん」と呼んでいたけれど、成人してからは母やカミさんには「親父(オヤジ)」と呼んでいたかもしれないが、面と向かってそう呼んだ覚えはない。親父は寡黙な人だったし、大体男の子と父親なんてそういつも話をしているわけではない…、とも思っていたし。

 親父は菓子製造の小さな町工場をやっていたが、本人は根っからの菓子職人で、営業はあまり得意ではなかったし、会社の切り盛りはもっぱら母がやっていたような気がする。問屋筋からは商品の評判はよく商品を菓子博覧会のような品評会に出さないかという誘いもあったようだ。良く解釈すれば商品に箔をつけてやろうという問屋の配慮だったかもしれないが、もちろんその背後にはそれで売上があがるという読みもあったのだろう。

 時折行われる業界の寄り合いでも、仲間の菓子屋が品評会で〇〇賞を取ったなどと言う話をきいても「あんなもなぁ、金さえ出せば貰えるんだから…」と取り合わなかった。実際大手の某社が金を使って金賞を貰ったなどと言うまことしやかな噂も取りざたされたこともあるようだ。親父は世渡りが不器用なところもあって、そういうことは特に嫌っていた。

 その親父がどういう風の吹き回しで品評会に出品することになったのかはいまだに分からないし、もしかしたら問屋筋からやんわりと圧力があって断り切れなくなっていたのかもしれない。親父はその年、昭和43年(1968年)に札幌で開催された第17回全国菓子博覧会に商品を出品して、その商品が金賞を受けた。その前後の定かな記憶はぼくにはないけれど、暫くすると家の床の間の片隅に大きな金メダルのはめ込まれた金賞の表彰盾が置かれていた。

 親父はそのことについてその後にも何も話さなかったけれど、金メダルはそれからずっと床の間の隅に置かれていたがそのうち見当たらなくなっていた。親父の死後その遺品の中からそれは出てきた。きっと実直な親父にとってそれは真っ向勝負でとった金メダルだったのだと思う。

 今その金メダルはぼくの手元にある。それを手に持つと大きくずっしりと重く、それが職人としての親父が菓子作りにかけていた想いみたいな気がして…。が、親父の心子知らず、親不孝息子であるぼくは今その金メダルを便利にペーパーウエイトに使っている。親父、ごめんな。
 

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2024年06月08日

電話恐怖症 2

電話恐怖症 2

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 以前にも電話恐怖症のことについて書いたけれど、電話の主役が家電(いえでん)からスマホに変わった今もその状況はあまり変わっていない。家電は今もあるけど警察の勧めもあってオレオレ詐欺防止のために留守録がセットしてあるから実際は使っていないのに等しい。

 コロナで三年近く友人や親類などと会う機会が減って、今までなら電話で近況確認しあうなどの機会が増えそうなものだけれど、今はメールやLineのチャットなどもあつてぼくにはそちらの方が向いているのかそういう機会はかえって増えたけれど、電話の機会は減り続けていた。ということで電話に対するアレルギーも忘れかけていたところに揺り戻しみたいなものが来た。

 今はリハビリのために週何度かジムでトレーニングをしているのだけれど、一月のある日その日の午前中もジムのトレーニングエリアでストレッチをしていた。その時床に置ていていたスマホが振動したので画面を見るといとこの息子からLine通話が入っている。彼とはチャットは良くするけれど通話が入ることは珍しいし、思い当たる節もあったので急いでロッカールームに行ってかけなおした。

 思い当たる節というのは、昨年来いとこは末期がんの宣告を受けて抗がん剤を使用しながら自宅療養を続けていたのだ。それでも正月には食欲もあるし元気な様子も垣間見られたので少し安心はしていたのだけれど…。電話はすぐ通じて彼と話が出来たのだけれど、その内容はショッキングなものだった。

 彼はいとこと小さな小料理屋をやっていてその日も前夜の営業のあと店をかたずけ少し仮眠をとってから家に戻ったら浴室でいとこが亡くなっていた。すぐ消防署と警察に連絡をしてその直後にぼくに電話してきのだった。ショックでなす術もなく一人で不安な様子がみてとれたので、着替えてすぐ行くと伝えて電話を切った。もちろん電話のせいではないのだけれど電話に対する昔のいやな感覚がよみがえってしまった。ぼくもまだちゃんとは立ち直れないでいる。

 昔、会社に勤めている頃一時、「お客様相談室」という顧客からのいわばクレームを受ける部署を担当したことがあるのだが、その頃の嫌な感覚もよみがえってきた。その頃は今のようなカスハラなどと言う言葉も概念もなく、電話の向こうで担当者を罵倒するようなクレーマーの声に怯え鬱症状に陥る担当者も少なくなかった。これももちろん電話という装置に責任があるわけではないけれど…。突然電話が鳴りだすと、その背後に色々な思いが立ち上がってくる。

とはいえ自分も段々と歳をとって中々好きな友人や知人、親類などと頻繁に会うことができなくなる時が来るのは間違いないので、かつキーボードなどで文字を打つのが億くうになることもあるかもしれない…、そういう時はやはり電話などで肉声を聞きつつ無駄話などできることは心強いし、その有難さも判っているので…なんとか今から考えておかねば、とは思っている。
 

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 *電話アレルギーのもう一つにはこちらが何かの作業に集中している時や大事な音楽を聴いている時などにこちらの都合に関係なく「さあ、出ろ!」とたたみかけるようにいきなり鳴り出すのも苦手な点かもしれません。

メールなどであればお互いが無理のないタイミングでできそうな気もするのですが、もちろん肉声のようなウェットなコミュニケーションはできないので、ケースバイ・ケースで使い分けられるのがいいのでしょうが…。
 

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2024年05月14日

Back To The Future

Back To The Future
 
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 この間の母の日に以前カラー化した母の写真をiPad に入れたアルバムで見ていたら、昔観た映画”Back To The Future “を思い出してしまった。

 マイケル・J・フォックス扮する若者マーティーがタイムマシンに乗って時を遡り結婚前の母親に出会う、という事から物語は始まる。その時代に行くとさえない青年だった父は母の関心を引くどころか、母は目の前に現れたマーティーに恋心を抱いてしまう。

 このままいくと、母が父と結婚しなければ自分は生まれず未来が変わってしまうと一緒にタイムスリップをしてきたドクに忠告され、マーティーは何とか父と母が結ばれるように腐心する、というのが映画のあらすじ。未来を変えることをしてはいけないというタイムマシンものにありがちなお約束だけれど、この映画のストーリーは実によくできている。

 ぼく位の歳になると人生を遡って俯瞰してみると、いくつかのところで人生の大きな岐路に立っていたという時点が今は見えてくる。もちろん人生自体が言ってみれば選択の連続なのだけれど、その中でもその後の人生を大きく左右する選択や岐路のようなものが見え隠れしてくる。その選択肢や出会いがちょっとズレても今の状況は大きく変わっている、ということも。

 中には自分で意識して選択したものもあるけれど、その多くは人との出会いとか巡り合わせで自分だけではどうにもならないことも多い。例えば父母の出会いといったものはその最たるものかもしれないけれど、子供にはなす術もないしぼくもそうだけれどその出会いの仔細さえ知ってはいない。

 母の日に、少女時代の母の写真を見ながら、この少女の選択がちょっとでも違ったものになっていたら今はどうなっていたのだろうか…などと思ったりした。人それぞれにそれぞれの"Back ToThe Future"があるような…気がする。

 
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 *母は大正九年(1920年)の生まれだったのでこの写真は16歳の頃で昭和十一年(1936年)頃のものと思われます。1936年といえばイギリスでは1月にジョージ5世が死去、エドワード8世が即位しましたが、同年12月10日には王位よりシンプソン夫人を選び退位しました。

 

また日本では2月に二二六事件が勃発、7月にはスペイン内乱が勃発するなどそれからの長くて暗い時代への足音が迫っていた時でした。そういう時代背景の中での一人の少女のポートレートとして見ると自分の母ならずとも感慨深いものがあります。

 

 

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2024年05月11日

レオの納骨

レオの納骨
 
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 朝から夏のような天気。今日は前からお寺さんに頼んでおいたレオの納骨の日なので昼前にずっとウチの居間の出窓に置いておいたレオの骨壺をもってカミさんと谷中のお寺にいった。

 お寺で住職さんに挨拶をして墓所に行くと、係りの人がすでに墓石の蓋を開けて納骨する準備がしてあった。いくら猫だからといって、こちらが勝手にお墓の蓋を開けて骨壺を入れるわけにはいかない。やっぱりそこらへんはお寺のしきたりがあるのでそれはもちろん尊重しければならない。

 蓋を開けるとそこには先に葬ったモモの小さな骨壺があってその隣に並べてレオを置いた。狭い石室の中に小さな骨壺が肩を寄せるように並んでいる。もっと早く持ってこようと思ったけどなかなか踏ん切りがつかないでとうとう連休明けになってしまった。これで少しほっとしたけど、寂しさも増した。

 お寺をでると、今日は土曜日という事もあって御殿坂を昇ったお寺の前の通りには外国の観光客が多い。谷中はどういうわけか欧米系の観光客が多く、今日は団体の観光客も何グループか見かけた。いつものように佃煮屋さんで富貴豆と昆布の佃煮を買ってそば屋に。

 これもあいも変わらず卵焼きと盛りそば。それに今日は桜エビのかき揚げがあったのでそれも頼む。店の中にも欧米系の観光客が二組。一組には通訳ガイドがついていてそばの食べ方を盛んに説明していた。天気はいいが、やっぱりなんか寂しいなぁ。


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いつものおそば屋さんで食べた桜エビのかき揚げは、サクッとして優しい味でまさに春の味がしました。
  

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あれから一年
 

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2024年04月26日

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その47~ 猫という時間

猫という時間
 
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 ■ 猫は時と共に価値を高めるヴィンテージ・ワインのようだ。(キャロル・ウイルボーン)
  A cat is much like a vintage wine that is enhanced with age. (Carole Wilbourn)
 
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 猫と暮らし始めてもう長いこと経つけれど、その間に楽しいこと辛いこと数えきれないほどの出来事があったけれど、その傍にいつも猫がいたことを想い出すとそれらはまさにヴィンテージ・ワインのように味わい深い時の流れだったように思えてくる。

 ぼくは猫の写真を撮るのが好きで、実際によく撮っているのだけれどただ可愛いというだけの気持ちで撮ったことはあまりなかったように思う。世の中には最近キュートな子猫の写真など可愛い猫の写真があふれているけれど、毎日猫と一緒に暮らしているぼくにとっては猫は日常生活のシーンの必ずどこかに居る自然な存在で可愛いだけの存在ではない。

 猫の魔力はぼくらのありふれた、何の変哲もない日常の時間が猫がそこに居るだけで、何かかけがえないのない時の流れのように思えてくることだ。いわば猫という時間に包まれて魔法にかかったように時間が熟成してゆく。ぼくはそれを撮りたい。

 それはまったりとした憩いの時間もそうだけれど、彼らがソファに爪を立ててそれを叱っている時も、クリニックに連れてゆくために大汗かいて追いかけている時も…、それは猫の時間。それも時と共に心の中で静かに熟成して味わい深い猫という時間に醸し出されてゆく。これからも猫という時間を少しづつカメラに収めていきたい。
 

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posted by gillman at 12:58| Comment(6) | 猫と暮らせば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする